唱法華題目抄を少しづつ読み解いているのですが、そこから読み取れるのは、日蓮は「御題目」を広めたかったという事ですね。それでこの御題目には、意味は理解しなくても、この御題目には功徳(ご利益ではありませんよ、仏教一般でいう功徳です)があり、唱えるだけでも成仏できるという事を述べています。
普通に(この場合、日蓮を信じて信心しているというレベル感の普通)考えるのであれば、日蓮大聖人がご金言として言われているのだから、その門信徒であれば疑わず只管信じて励みなさい。こうなるのでしょう。しかし今の私にはそれは出来ません。何故ならば、創価学会でその様に教えられ、やって来た結果があまりにお粗末であったからです。
人が何かを読誦して祈るのであれば、その意味をしっかりと意識して読誦する事が大事だと思います。その事からお題目を唱えるにしても、その意義という事をしっかりと理解して祈らないと、本来の意義という事とは違うものになりはしないでしょうか。現に創価学会ではお題目は単なる「幸せになる御呪い」程度の理解でしかありません。果たしてそれが日蓮が目指していたものなのでしょうか。
という事で、今回はお題目、南無妙法蓮華経の意義について少し書かせてもらいます。今回の記事については御義口伝を参考としています。
◆御義口伝から見えるお題目
前にも書きましたが、御義口伝とは「口伝」です。この口伝について日蓮は以下の様に述べています。
「伝教大師の云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」文、竜樹の大論に云く「修多羅に依るは白論なり修多羅に依らざるは黒論なり」文、教主釈尊云く「依法不依人」文、」
(御義口伝)
ここでは伝教大師の言葉を通して、口伝というのは仏説に基づいていなければ信じてはいけないという事を宣べ、龍樹菩薩の大論を引用し、修多羅(スートラム、経典)に依っていないのであれば黒論(地獄の論)であると言うのです。そしてその事が釈迦が涅槃経で述べた「依法不依人」という事であるというのです。
では仏説(経典)に沿っているかどうか。そもそも経典もサンスクリット語から翻訳されているものであり、しかも無量義経の様に、漢訳しかない経典もあるので、どこまで経典を求めるのか、そこについては一人ひとりが考えなければならないでしょう。
その事から口伝であっても、それを引用する、引用しないという事については、最終的には個人に任されているといっても過言ではなく、その為に本来ならば仏教を学ぶものは常に研鑽を必要とするのです。
という事で、この御題目の説明については、私は御義口伝は重要な事を述べていると判断して、内容について読み進めて行こうと考えています。
御義口伝
南無妙法蓮華経
御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、又云く梵語には薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり、妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し已上。
南無妙法蓮華経
御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、又云く梵語には薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり、妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し已上。
これが御義口伝で述べられている御題目の事です。
・「御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」
ここでまず「南無」という事について述べています。ここでまず南無とは梵語(サンスクリット語)の「ナーム」という音訳であり、漢字でその意義を表すと「帰命」と書きます。帰命とはその言葉通りで「命を帰する、そこに命をかけて信じて随従する」という意味なのです。そしてその帰命する対象には人と法があり、人とは釈尊に帰命する事であり、法とは法華経に帰命するという事だというのです。ここでいう釈尊とは、法が法華経である事から久遠実成の釈尊の事であって、始成正覚(この世界で悟りを開いた)の釈迦ではありません。
ここから言える事ですが、例えば日蓮正宗では日蓮大聖人に連なる(と信じている)貫首及び、その下の出家僧に従うとか、創価学会では永遠の指導者の池田大作氏に従うという論理もありますが、ここで明確にある様にお題目を唱える上で帰命する対象とは久遠実成の釈尊であり、法華経であって、それ以外の人師や人師の語った論や釈では無いのは明確なのです。
・「又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変一念寂照と、」
次に帰命の「帰」とは仏の教えに従う事であり、その教えとは「迹門不変真如の理」に従う事を云うとあります。迹門不変真如の理とは、天台大師が唱えた「一念三千」で示す教えです。迹門の方便品第二では十如是を説き、以降の迹門に於いて二乗作仏といいますが、各弟子たちに未来の成仏の約束を与えられた事で、理論的十界互俱が示された事になります。また「命」とは身命を投げ出して従う事であり、それは「本門隨縁真如の智」に命く(もとづく)事と述べています。これは久遠実成が明かされ、実際の仏の実像が明かされ、事実の上でどの様な振舞であったのか、そこの振舞に基づき、智慧を出して生きる事だと言っても良いでしょう。この事を天台大師は「随縁不変一念寂照」と解釈したというのです。
・「又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、」
またこの帰には私達の色法(肉体)を指し、命とは私達の心法(精神)という事を指すと言います。確かに帰命の意味とは「身命を捧げて教えに従う」という事なので、心だけ信じて行動は別とか、行動は随っているけど心は異なるという事では、本当の意味での「帰命」になりません。心と体、そして行動が伴ってこそ、本来の帰命とう事になるのです。この事について天台大師は「一極に帰せしむ故に仏乗と云う」と釈したと云います。
日蓮の宗教団体で「我こそは日蓮の正統後継の組織」という処は多いのですが、実際にその団体の専属職員幹部や、それに率いられた信徒の多くは心法、若しくは色法が従っていても、色心共にという人はほとんど見た事がありませんよね。
ここまで一気に書いてきましたが、この後もまずは御義口伝の内容を書き連ね、その後に御題目という事について、もう少し考えていきたいと思います。