前回の記事では、広宣流布で「化義の広宣流布」「法体の広宣流布」について、私の見解を書かせた貰いました。創価学会で「広宣流布」と呼んでいますが、教義改正で賢樹院日寛師の教学を見直すという事を言ったのですから、この際、この事について再度よくよく考えてみる必要があると考えています。
まあ、脱会こそしていませんか、私は既に創価学会を辞めた立ち位置にいますので、どうでも良いのですが。
さて今回は「御題目」について書いてみます。
この御題目「南無妙法蓮華経」について、日蓮は「報恩抄」で以下の様に述べています。
「問うて云く法華経一部八巻二十八品の中に何物か肝心なるや、答えて云く華厳経の肝心は大方広仏華厳経阿含経の肝心は仏説中阿含経大集経の肝心は大方等大集経般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経雙観経の肝心は仏説無量寿経観経の肝心は仏説観無量寿経阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経涅槃経の肝心は大般涅槃経かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目其の経の肝心なり、大は大につけ小は小につけて題目をもつて肝心とす、大日経金剛頂経蘇悉地経等亦復かくのごとし、仏も又かくのごとし大日如来日月燈明仏燃燈仏大通仏雲雷音王仏是等の仏も又名の内に其の仏の種種の徳をそなへたり、今の法華経も亦もつてかくのごとし、如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復一切経の肝心一切の諸仏菩薩二乗天人修羅竜神等の頂上の正法なり」
少し長文の紹介となりましたが、要は各経典の題号(題目)とは、それぞれの経典の肝心(要点)だと言うのです。そして法華経も同様に「妙法蓮華経」と言う五字に法華経の要点が詰まっていると言うのです。だから「南無妙法蓮華経」というのは、法華経の肝心(要点)に帰依するという意味があるのです。
この題目の意義については、御義口伝に記載されており、このブログでも過去に以下の記事で扱いましたので、参考にして下さい。
さて、私が活動を止めた時に、先輩などからは「斉藤、活動をやめても御題目は唱えているよな?」という事を良く聞かれました。創価学会では「広宣流布」の一つとして「御題目の流布」という事を言う人もいますが、それについて日蓮は以下の様に述べていました。
「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。」(如説修行抄)
この御書で多くの人々が御題目を唱える事で、この社会は理想的な平和な世界(義農の世)になると言うのです。これを受けてかは知りませんが、創価学会の中でも、この御題目を唱えるという事では以下の様な指導が実しやかに流れて居たりします。
正直、なんじゃこりゃ?
そんな感じの話ですね。
では、この妙法蓮華経の肝心に「南無」を点けて唱えるという、ただそれだけの事で、社会が平和になったり、幸せな人生が送れたりするのでしょうか。
題目を唱えるという事について、以前、池田氏は20世紀最高峰のバイオリニストであるユーディ・メニューイン氏との対談したのですが、ここでメニューイン氏は以下の様に語ったといます。
「──「南無妙法蓮華経」の「NAM(南無)」という音に、強い印象を受けます。「M」とは命の源というか、「マザー(MOTHER)」の音、子どもが一番、最初に覚える「マー(お母さん)、マー」という音に通じる。この「M」の音が重要な位置を占めている。そのうえ、意味深い「R」の音(蓮)が中央にある──(「聖教新聞」1992年4月7日付)」
ここでは世界的な音楽家の観点から、お題目の発音について、如何にも深い意義がある様な事を語らせています。
まあ大枠、ここで語る様な意義が題目にあったとしましょう。しかしそうであれば創価学会の中では「南無妙法蓮華経」という唱え方については、もう少し正確さを求めるべきだと思いますが、戦後七十年の間、その様な指導性はありませんでした。だから現場では題目を唱えると言っても、様々な発音がありますよね。
「なんみょうほうれんげーきょう」
「なんみょーれんげーきょう」
「なんもれんこ」
「のんののんの」
「なんにょーほーねんねにょー」etc
お題目の文字は共通していると言っても、その文字の読み方、また長時間に渡り繰り返して唱える中で、その発音の仕方は、ほれぞれ人様々なものとなっています。そもそも池田氏の発音にしても、私は怪しいところがあると思います。
日本語にしても、時代によって文字の発音の仕方が異なることもあり、聞くところでは日蓮の生きていた鎌倉時代と現代で、発音が異なるとも言われており、日蓮が唱えたお題目も、鎌倉時代当時どの様に発音していたのか、正確に伝承されていないとも言われています。
そもそも発音により題目の力があるとすれば、日蓮宗が唱えるお題目、宗門の唱えるお題目、顕正会の唱えるお題目や創価学会の唱えるお題目にどの様な違いがあるのでしょうか。これは無いですよね。
人が祈る時、そこにどの様な事を思い、どの様な祈りをするのか、つまり唱える人の内面に実は大事な事があるのでは無いか。私はその様に思います。
例えば日蓮は一遍のお題目に無量の功徳力があるという言葉もありますが、お題目が法華経の肝心(要点)であるのであれば、その法華経にはどの様な事が述べられていて、人々に何を説こうとしている経典であるのか、そこをしっかりと認識しなければならないと思うのです。そう考えてみると、せめて御義口伝にある「南無妙法蓮華経」にある意義だけは唱える人たちに理解させる必要があるのではありませんか?
そうなるとやはり「教学」という事がとても大事な事になると思いますし、会員たちの中には「学びの姿勢」という事がなければいけません。しかし今の創価学会の中にはそんな姿勢はありませんし、指導する創価学会という組織にも、そういう姿勢が全く見えません。そもそも創価学会の幹部の中で、御義口伝にある南無妙法蓮華経の意義を語れる人はどれだけ居るのでしょうか。
ただこれは人の心の持つ基本的な能力ともいえるのか、人は祈る事で思考を現実化するという事がある様です。これは信仰体験という形になりますが、その為か、世の中にある宗教には様々な信仰体験や奇跡体験というのは存在します。
以前からこのブログでも書いてきましたが、信仰体験とは、何も創価学会や日蓮の文字曼荼羅にお題目を唱える事に限り起きる事象ではありません。創価学会や宗門だけの専売特許ではないのです。
この様に考えてみると、やはりお題目を唱えると言っても、日蓮の語ったお題目の意義を理解するためには、そこには当然、お題目の意義について、大前提として唱える人は学ぶという事が必要なのではないかと思うのです。
それなしにひたすら長時間に渡り唱えさせる事は、結果としてマントラ(呪文)を唱えさせ、ケースによっては変性意識状態に持って行かせてしまうだけで、場合によっては心身状態にもあまり良くない影響を与えるだけという危険性も考えられるのではありませんか?
先の記事にも書きましたが、創価学会では「化儀の広宣流布」と呼び、要は宗教の実践形式を広める事ばかり行ってしまい、多くの活動家達は組織活動ばかりしか考えられなくなっています。
しかしお題目の流布というのであれば、創価学会は会員にお題目を唱えさせる事ばかり重点置くのではなく、こういう事も考えて取り組む必要があると思いますよ。