「戸田門下を代表して、化義の広宣流布を目指し、一歩前進の指揮を取らせて頂きます」
これは池田氏が第三代会長に就任する際、宣言した言葉です。
さて、創価学会では「広宣流布」を目的としていますが、この「広宣流布」という事が何なのか。実はそこについて創価学会の中では具体的に定義をされていません。だから幹部に「広宣流布とは何ですか?」と質問すると、幹部毎に微妙に異なる見解が戻ってきます。
恐らく言葉が先行しているのですが、その意義について創価学会の組織の中で明確に定義をされていないというのが、こういった幹部の言動から判ります。
ネットではアンチ創価に対して「広宣流布しろー!」なんて言う発言もありますが、そもそも広宣流布の具体的な内容とか、過去の経緯なんて事を、この様な発言している人達はどれだけ理解しているのでしょうか?
先の池田氏の宣言でいう「化義の広宣流布」というのが、本来、創価学会が目指していた広宣流布なのですが、この言葉を定義したのは、日蓮正宗の賢樹院日寛師でした。この事については、過去に以下の記事でこのブログでも少し扱いました。
先の記事で「広宣流布について考えるべき事」を書きましたが、それにつづいてこの「化義の広宣流布」について、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
◆化義の広宣流布
この「化義の広宣流布」という言葉と、その元となる「化義の折伏」について、創価学会の中ではあまり整理されていません。恐らく「化義の折伏」の先にあるのが「化義の広宣流布」という事なのでしょう。
この「化義の折伏」とは、日蓮の「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」の以下の御文から日寛師が解釈をした観点です。
「四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。」
この御書の内容は、四菩薩(上行、浄行、無辺行、安立行)は、折伏の姿を現す時には、賢王と成って愚王を誡め責めするし、摂受を修行する時には僧侶となり正しい法を弘め持つのである。というのです。
創価学会の第二代戸田会長は、この御文を解釈して「賢王とは在家の姿で、僧とは出家僧の姿だ。日蓮大聖人は僧侶なので日蓮大聖人が行ったのは摂受の修行であり、我々在家集団が行う折伏こそ、本門の折伏だ」と述べ、創価学会こそが本物の折伏集団であると、過去に指導していました。
賢樹院日寛師はこの部分について、観心本尊抄文段下で、以下の解釈を行っています。
文に云く「当に知るべし此の四菩薩」等文。
問う、応に「四菩薩折伏を現ずる時は、聖僧と成って」というべし。即ち蓮祖の如し。何ぞ賢王というや。
答う、折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く「法華折体、破権門理」の如し。蓮祖の修行これなり。二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く「正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし」等云云。仙予国王等これなり。今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり。或はまた兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云。
問う、応に「四菩薩折伏を現ずる時は、聖僧と成って」というべし。即ち蓮祖の如し。何ぞ賢王というや。
答う、折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く「法華折体、破権門理」の如し。蓮祖の修行これなり。二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く「正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし」等云云。仙予国王等これなり。今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり。或はまた兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云。
ここで「当に知るべし」の御文について、日蓮大聖人は僧形であるのに、どうして「賢王」だと言うのか、という問いを設定して回答しています。
ここで「折伏」には二種類の意義があって、一つは「法体の折伏」であり、これは天台大師が述べた「法華折伏・破権門理」の言葉がその依文だと言います。そして二つ目は「化義の折伏」であり、それは涅槃経にある「正法を護るものは戒律を受けず、威儀を修せず、法を守るために武器を持つべし」という言葉にある様、伝説にある仙予国王等の行いの事であると言うのです。そしてここで言う「法体の折伏」、つまり広めるべき法の確立について、ここでは摂受と呼んでいるというのです。
正直、この賢樹院日寛師の解釈は苦し紛れではないでしょうか。そう私は考えています。
確かにこの観心本尊抄の言葉通りで言えば、日蓮は僧形なので、その行動はここでは摂受という事になってしまいます。これでは日蓮が「一乗流布の時は権教有つて敵と成りてまぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏とは申すなり」(如説修行抄)と言った事と、整合性が取れません。その事から日寛師はこの様な「法体の折伏」「化義の折伏」という二つを編み出したのかもしれません。
この日寛師の解釈から、後の僧侶の中では折伏という弘教の行動をとらずに寺院に籠る事も「法体の折伏の一分」だと正当化され、創価学会は自分達の行う折伏こそ、日蓮大聖人をも越える闘いだと言う事で、語る内容にはあまり重きを置かず、ひたすら「誡め責める」事こそ大事なんだと言う様な、それぞれに誠に身勝手な解釈が横行してしまいました。
◆この御文の再解釈
そもそも「法体」とか「化義」とかは何を指すのでしょうか?
「法体」とは簡単に言えば、広めるべき法の事であり、化義とは簡単に言えば修行の形式を言います。つまり広めるべき法体は日蓮が生きている時代、日蓮によって確立されたので(法体の折伏)、以降の門下に求められるのはその法体を修行する形式(化義の折伏)だと言うのです。だから創価学会では日蓮の文字曼荼羅をばら撒き、日寛師の言う処の「義理の戒壇」を広める事に一生懸命取り組んだと言うのです。
でもですね。そもそも法華経で言われている「広宣流布」とは、前の記事にも紹介しましたが、「是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。」という事なのです。このどこを読み取れば「法体」とか「化義」とか出てくるのでしょうか。むしろ法華経を断絶させるなという事は、時代に即応した法華経の解釈が必要となるので、常に法華経について研鑽し、必要な解釈を時代ごとに世の中に広めていく必要があるのです。そこには「法体の折伏」というのもなければ「化義の折伏」なんて事はあり得ないと思いませんか?
日蓮の御書を振り返ると、その前段には以下の言葉があります。
「我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり寂滅道場に来らず雙林最後にも訪わず不孝の失之れ有り迹門の十四品にも来らず本門の六品には座を立つ但八品の間に来還せり、是くの如き高貴の大菩薩三仏に約束して之を受持す末法の初に出で給わざる可きか、」
ここで地涌の菩薩は久遠実成の釈迦が発心させた弟子だが、釈迦が成道した時や入滅した時にも訪れなかった不孝の罪がある。法華経の初め十四品のも来訪せず、本門のうち後半の六品では居なくなってしまい、本門のうち、ただ八品のみ来訪した菩薩なのである。この様な高貴な大菩薩は三仏に約束していた事から末法はじめに出現するのであると言うのです。
そしてこの様な高貴な地涌の菩薩の上首は、折伏の姿を現す時には賢き王の姿となり愚かな王を誡め責め立て、摂受の修行をする時には僧侶となり、法を持ち広めるのである。という事なのです。
私はこの御文を素で読んだ時、日蓮自身のこれまでの行動をここで述べているに過ぎないと思うのです。
ここで愚王と言いますが、これは仏法に疎い為政者に対しては、仏法の話ではなく王としての姿勢を以って相手を誡めるという事であり、これは立正安国論や守護国家論等で見られる一連の日蓮の行動だと思うのです。そして摂受というのは、人々に法を説く為には僧侶となり、人々に合わせて淳淳と法を説き示しました。
つまり暗に自身の行動を通して、地涌の菩薩の上首四菩薩の行動を自身が取った事を示しながら、自身がこの地涌の菩薩に当たる事を、ここで述べた箇所ではなかったのかと思うのです。
しかし賢樹院日寛師は、この御文の解釈を折伏・摂受という形への拘り、またそこから自身が僧侶という事を省みた時のジレンマから、この様な「法体の折伏」「化義の折伏」という、歪な解釈を広めてしまい、結果としてそれ以降の大石寺門流に入らぬ誤解を与えてしまったのかもしれません。
久遠元初の自受用報身如来もそうだし、大石寺の大本尊を根源にしてしまった事もそう。またこの文字曼荼羅を「功徳聚」と呼んで、それこそお守りのお札の様な印象を与えた事もそうですが、やはり早々に賢樹院日寛師の教学から離れなければいけないと、私は考えているのです。