今日の関東地方は、朝から結構な雨脚となっています。朝早くから屋根に打ち付ける雨音で目が覚めてしまうくらいの勢いがありました。天気予報によれば、あと一週間ほどで梅雨は明けると言っていました。もう洗濯物も乾かずに、部屋干しが溜まってますので、早く明けてほしいものです。
私も五十代に突入してそこそこになります。個人的な感覚では、ついこの間、嫁と結婚し、子供が産まれ、日々バタバタと生きて来たのですが、そんなに年月が経った感じがしないのです。しかし気が付けば、子供達が中学生と高校生になっていました。これは以前のブログ記事にも書きましたが、この時間はあっという間の感覚なのですが、思い返すとそこには様々な事があるという感じなのです。
ちょっと不思議な感覚ですね。
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
これは豊臣秀吉の辞世の句ですが、本当に人生というのは、あっという間に過ぎ去ってしまうものなんでしょう。
私の勝手な予測では、恐らく私の人生の残りも四半世紀あれば上等と思っているのですが、この人生を生きてくる中で、若い時から考えていた事があります。それは。
「もし自分に子供ができたら、笑って話せる人生でありたい」
こんな事でした。
私には十歳近く離れた兄が居ます。この兄はとても真面目で、中学校でもそこそこ成績も良く、高校も地元の進学校に入学し、生徒会役員をやってました。そこ後、電子工学関係に進学し、そこでも成績が良かったことから、就職もとある大企業にエンジニアとして就職しました。
一方の私は中学では並み程度の成績で、高校は「Beパップ・ハイスクール(ご存知ですかね)」の様な工業高校に入学し、バンド組んでいたり、打ち上げと称しては繁華街の居酒屋に繰り出したり。また夜中に溜まり場の知人の家に遊びに行ったりしていまして、そのせいでしょうか、学校は遅刻の常習犯。そんで就職するわけではなく、何故か「イラストレーターになる」と決意して、イラスト関係の学校へ進学。しかし直ぐに中退して勝手にデザイン会社に就職。でもそこの会社も長続きせずに、直ぐに辞めて一時期はプータローをしていました。
だから今は亡き親父からよく言われました。
「いいか単己!陶芸家だったら失敗作は、窯から出して直ぐに割って捨てれば良いが、人間はそうはいかんのだ!」
要は兄に比べたら、私は失敗作だと言いたかったのか、若い時の私は、この親父の言葉にそんな事を感じ、反発もしていました。
プータローも半年ほど続け、この時は知り合いのアパートに転がり込んで居たのですが、やはり社会の中に居場所が無いと言うのも、これまた中々辛いものでした。そのため就職を決意、当時あった「週刊就職情報」という雑誌の中から、たまたま選んだのが当時のITベンチャー企業で、そこにプログラマーとして就職しました。
まあこんな感じで就職したのですが、そんなに社会は容易く生きていける場所ではありませんでした。そこで経験した事は、また別の機会に書いていく事にします。
こんな感じで放蕩息子をしていると、やはり様々な不安感に常に付き纏われますし、いろんな失敗を繰り返してきました。でも失敗して辛い事がある度に、私は自分自身に言い聞かせて居たのが、先の言葉だったのです。
私が創価学会で活動家となり、幹部になって行ったのも、恐らくこんな生き方の軌跡によるのかもしれません。
こんな生き方を三十年以上して来ましたが、お陰様で話の種に尽きることない人生になってまして、幸いな事に今の段階では、子供達に笑って話せる事柄が沢山出来ています。思うに「笑って話せる出来事」とは、中途半端に生きていたらは出来ないですね。また笑い話というのも、それぞれが、当時の私にとって苦しい出来事ばかりで、むしろ自分で楽しかったと感じるような出来事は、笑い話の種にはならないものなのです。
思うに人生というのは、苦悩するために生まれてきたのかもしれません。苦悩というのは、その事実を正面から受け止める事で、様々な学びを与えてくれるものですし、それなりに人生に対する洞察を与えてくれるものと感じています。
残りのあと四半世紀の人生で、あと幾つ笑い話の種を作ることが出来るのか、わかりませんが、後々、笑い話の種となる様に、そしてこの世界から去る際には、この人生が愛おしくなるように、これからも生きて行きたいと思います。