人間なんて生きていれば、様々な苦悩に遭うものです。寧ろ苦悩に遭わない人生の方が、私は珍しいのでは無いかと思うのです。
私は小学生時代は、あまり目立つことをしない子供でした。人前に立つこともなく、仲間内でも自発的に行動したという記憶はありません。しかし中学二年のとき、何をトチ狂ったか学級委員長なるものに立候補してしまい、見事、委員長になってしまったのです。
当時は一クラス四十二人。そのまとめ役になったのですが、当時の学校は荒れていて、ヤンキー・ジュニアみたいな野郎とか、積み木崩し(覚えてますかね?)のミニチュア版みたいな女子もいました。そんなクラスをまとめ、生徒会の下でクラス運営をする大変さを嫌というほど経験し、二度と人前に立つかと思ったものです。
高校生となり、何故かブラスバンド部に入部。この時も二年生で副部長、三年生で部長となりましたが、こちらは自発的ではなく、先輩に押し付けられた感じで受けたものです。
それ以外にも、創価学会では高等部の部長をやったりして、気が付けば人前に立って動く。そんな事が板に付いていたのかもしれません。
社会人となり、最初に入社した会社では最年少の社員で、いまから見たら結構先輩に可愛がられもしましたが、その内、システムの一部を完全に任され、その後に転職。転職先では開発部署の責任者を任され、その次の転職では友人と共に会社をやり、取締役もやりました。
また創価学会でもそれなりの規模の組織の責任者にも任命されたりとしましたが、こちらの方は最近一切やってません。
また友人とやっていた会社も、業績が悪化して会社をたたみ、その後、他の知人が会社を起こすというので、手伝いもしましたが、今ではとあるIT企業で、チマチマとエンジニアをやってます。
今は結婚して家庭を持ち、家族を背負いながら必死こいて、日々生きている状況です。
こんな生き方をして、今や齢五十代を越えたのですが、あっという間にこの年齢になってしまったという感覚と共に、細かく思い出すと、よくもまあ生きて来たものだもいう想いもあります。
家族の事や友人のこと、親の死、仕事の成功や失敗等など。あっという間に時間が過ぎたと言っても、思い出すと数えきれない位の出来事がありました。その中の苦闘は数しれずです。
仏教では人生に纏わる苦しみを「四苦八苦」と呼んでいます。
「生苦」とは一義的はこの世界に生まれでた事に関係する苦悩、また生きていく中での苦悩を言います。「老苦」とは肉体や精神が老いる事で感受する苦悩。「病苦」とは病を得ることで受ける苦悩。そして最後は「死苦」で、死に纏わる事で生起する苦悩です。人生の中で感じる苦悩は、この四つの何れかだと言います。
これにまた以下の苦悩もあると言います。
・愛別離苦
愛する人と別れなければならない苦悩。家族や恋人、親しい友人とは何れ別れなければなりません。
・怨憎会苦
生きていれば、憎い人や嫌いな人、性格的にも心情的にも、苦手な人とも付き合う必要があります。
・求不得苦
欲しいもの、どうしても必要なものでも、得られないというのは、人生にはつきものです。
・五蘊盛苦
五蘊というのは色受想行識という、心と体の基本的な五つの働きを言いますが、それらが思い通りにならない事を言います。
先の四苦にあとの四つを併せて「四苦八苦」と呼んているのです。
これらの苦しみを解決するには、初期の仏教では「四諦」というのが説かれていました。これは四つの真理を明らかに理解すると言う事を言いますが、それにより苦悩から脱却する事を解脱とも呼んでいました。では四つの真理とは何なのでしょうか、簡単に説明します。
・苦諦:迷いのこの世の中は、全てか苦悩であるという真実。
・集諦:苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実
・滅諦:苦の原因の滅という真実
・道諦:悟りに導く実践という真実
これは釈迦が初転法輪という、この世界で初めて説法した内容だと居ますが、最初の二つは、人生の苦悩の結果とその原因。そして後の二つは悟りの結果とその原因と言われています。
私のこれまでの人生も、様々苦しい事もありましたが、この初期仏教の「四諦」から見ると、確かに私の経験した様々な苦悩も「煩悩・妄執、求めて飽かない愛執」によっていたのかもしれません。
人は何かを求め、執着する事から苦悩を感じる。だからそれを「道諦(修行)」によって「滅諦(原因―煩悩などを滅する)」という事で、それらの苦悩から解放されるという初期仏教の教えも一理あると思います。しかし一方で、人の人生とは「煩悩・妄執、求めて飽かない愛執」を求める事で出来上がるものではないでしょうか。
人生とは「四苦八苦」で表される苦悩が常に付きまとうもの。それに対して初期仏教では「四諦」という真理が説かれています。初期仏教ではこの四諦から十二因縁や八正道という原理へと展開し、人々の苦悩からの脱却を目指す事を述べていますが、思うにそれらは人生の対処療法的なものであったのかもしれません。何故なら、人生とは「煩悩・妄執、求めて飽かない愛執」と切り離せないものであり、それを切り離し、離脱する事で苦悩から解き放たれるというのであれば、仏教で救済されるのは一部の限られた人になってしまうのではないかと考えるからなのです。