武漢肺炎は世界100か国以上に感染拡大しました。これはまごう事なきパンデミック状態です。ヨーロッパ各国では人の往来を制限し、経済活動に制限がかかっていて、人々は日々の生活にかなりの支障をきたしている様です。そんな中、各国政府は国民を守るために経済的な緊急支援を行っている状況です。
しかし日本では、「経済対策」という事で、何故か商品券や旅行の助成などに政府は財政出動を考えているようで、失業等については一時貸付制度で食いつなげと言っています。
こういった日本政府の行動に私は疑問を禁じ得ないのですが、あまり疑問に感じている人はいない様ですね。報道もどちらかというと、この動きに肯定的な内容が多い様に思いました。何故なら麻生大臣の言葉に反論するマスコミが居なかったですよね。
この日本の動きですが、私は若い頃には創価学会の広宣流布という言葉を信じ、選挙活動もしましたが、その他にも様々な活動に時間を割いてきました。そしてその根底にあった思いとは「仏国土」と呼んでいましたが、日本人や世界の人々が安穏で平和に生きていける社会の構築という事でした。
そんな活動の結果、創価学会の政治部門の公明党は政権与党に入り、大臣も輩出する様になりましたが、それが今の日本の実態です。私が創価学会の活動に疑問をもつ一つの切っ掛けが、この事からでした。
公明党が政権与党に入っても、国民の生活は困窮の一途ではないか。
何故、創価学会の活動家幹部は、こういった基本的で且つわかりやすい事に対して、何ら意見をいわずに、信濃町や公明党に反論もせず容認し、しかも放置していながら集票活動に必死となり役立たずの議員を国政に送り続けているのか。
大いなる疑問でした。
そして、その原因を創価学会の思想面に求めて調べてみたら、これが明確に理解出来ました。
このブログに書いている事は、そういう事について、私見ですが書かせてもらっています。お時間のある方は読んでみてください。
今回も法華経の思想性について書き進めていきます。
◆滅後の弘教の姿
如来寿量品では「久遠の釈迦」としての言葉を語っていますが、それ以降の説法では「久遠の釈迦」を明かした後の在世の釈迦として言葉を語っていきます。そして滅後(入滅後)の法華経の弘教の事について語っていきます。その一つの例として語らうのは「不軽菩薩」としての過去世の姿です。
この不軽菩薩の事が説かれているのは常不軽菩薩品第二十です。この話は、大昔に威音王仏という仏が居て、その像法時代に不軽菩薩というのが居たという事から始まります。この菩薩は人々に対して以下の言葉を述べて礼拝したと言います。
「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと。」
これは別名で二十四文字の法華経とも呼ばれていますが、内容としてはこの様な事です。
「私は貴方たちを尊敬します。けして軽んじる事は致しません。何故ならばあなた達は菩薩の道を行じた後に仏となるからです。」
この様な言葉を述べながら人々を礼拝して回りましたが、人々はそんな不軽菩薩に対して「この坊主は私達を軽んじないと言いながら、私達が成仏するなどと嘘の約束を言って回るのはとんでもない事だ!」と言い、不軽菩薩に対して罵詈雑言して、石礫や杖などで殴り掛かる人も居た様です。
しかし不軽菩薩は、それらの攻撃をうまくかわしながら、ひたすら礼拝行を続けたと言います。そしてこの不軽菩薩の行動こそが、釈迦滅後の弘教の規範という事とされたのです。
ここで考えなければいけないのは、不軽菩薩は何も小難しい言葉を語っていないという点と、迫害する側の人々は「自分達が仏になれるはずはない」という思い込みです。また迫害についても不軽菩薩は「莞爾として受けきる」という姿勢ではなく、それらの迫害を軽やかに避けながら、二十四文字の法華経を人々に対して「語り続けた」という事です。いいですか、二十四文字の法華経を「数多く唱えた」という事ではなく「語り続けた」という事なのです。
釈迦は法華経の心を「十如是」「二乗作仏」「久遠実成」という事で、妙法蓮華経で説きました。そして不軽菩薩は、その心を二十四文字の法華経という形で人々に語り続けたのです。
そうであれば、仏教でいう弘教とはどういう事をするべきなのか。そこは考え直さなければならないのではありませんか?
単に「南無妙法蓮華経」という言葉を唱えるのか、それを数多く唱える事を重要視するのか、はたまた文字曼荼羅をばらまく事なのか。
私は違うと思うのですけどね。
いま創価学会の活動家や、元活動家で正しい創価学会の復帰を求める人、また宗門で信心をする人達は、なにやら宗教行為やそれに付随する聖堰を弘める事を「広宣流布」と呼んでいますが、実は広宣流布とは、久遠実成で語られている様な心のしくみを理解して、実社会の中で、一人ひとりが自分の言葉で語り・弘めていく事を求めているのではありませんか?
私は常に「自分の言葉で語る」という事が大事だと考えているのは、こういった不軽菩薩の行動を読んで感じたからなのです。
やれ「化義」だしきたりだ、組織の都合だ。
そんなことは一切関係ないと思います。
(続く)