法華経の思想性について、如来寿量品を更に読み続けていきたいと思います。ここまで一念三千と久遠実成について話を進めてきました。そこで見えてきたのは、仏という存在の展開、成仏という考え方の転換、そして自分と他者の関係性について新たな観点を与えるものが、この如来寿量品にはあったと私は思っています。
またそういう如来寿量品の思想性を、実は破壊しているのが、富士大石寺第二十六代貫首の堅樹院日寛師の教学である事、そして創価学会や宗門に現れている様々な問題性の根源には、この堅樹院日寛師の教学が影響を与えているのでは無いかと私は考えていて、その点についても書かせていもらいました。
この如来寿量品には、それだけではありません。
実は死生観についても、ここでは述べられているのですが、今回はその事について書いてみたいと思います。
◆如来の寿命について
人の一生とは、現在、日本では「人生八十年」と言われています。しかしある研究によれば人間は肉体的には百二十歳までは本来生きていけると言われています。ただどの道、人間は何時かは死ぬ存在である事には変わりありません。
如来寿量品では釈迦は五百塵点劫から、常にこの娑婆世界(現実世界)で説法教化してきたと語られています。
「所作の仏事未だ曾て暫くも廃せず。是の如く我成仏してより已来甚だ大に久遠なり。寿命無量阿僧祇劫常住にして滅せず。諸の善男子、我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶お未だ尽きず。復上の数に倍せり。」
つまりここで久遠実成の釈迦の寿命とは無量阿僧祇劫であり、いまだ滅する(入滅)する事が無いと語り、この様な菩薩行を行う事で得た寿命も、五百塵点劫を更に倍する寿命を得ていると述べるのです。これを端的に言えば、久遠実成の釈迦の寿命は「無始無終(始まりも無ければ終わりも無い)」と言う事なのでしょう。
ここから私達自身も無始無終で永遠性を持つという事と、読み取る向きもありますが、それについては後述する事として、ここでは「久遠実成の釈迦」という存在はどういうものかという事を、まずは考えてみる必要があると思います。
先の記事にも書きましたが、この久遠実成の釈迦とは、ある時には仏として姿を現わし、またある時にはその仏の下で仕え、修行に励む人として現れるというのです。そして修行した人の中には開悟して仏になる人もいる。つまりこれは、この娑婆世界(現実社会)に現れる「法を求める」という生命活動全般の姿であるという見方も出来ると思いますが、いかがでしょうか。そしてそういった活動は止む事なく続いていると言うのです。
「然るに今実の滅度に非れども、而も便ち唱えて当に滅度を取るべしと言う。如来是の方便を以て衆生を教化す。所以は何ん、若し仏久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず。貧窮下賎にして五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん。若し如来常に在って滅せずと見ば、便ち・恣を起して厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わず。是の故に如来方便を以て説く、比丘当に知るべし、諸仏の出世には値遇すべきこと難し。」
ここで久遠実成の釈迦は、滅度(入滅)では無いけれども、あえて方便で入滅するというのです。入滅とは「人の死」ですが、その死をもって人を教化するというのです。これはつまり「人の死」の意義について語っている部分だと私は思います。
一義的には、釈迦という指導者は決して死ぬ事はないのですが、それを言うと人々はその指導者の下、修行に励まなくなってしまうので、あえて時期を切って、私は亡くなるという事で、そこに恋慕の心を起こしていくという事を語っています。
しかしもう一つの観点でこの事を考えると、人の一生とは様々な時間的な長短の差はありますが、必ず人は死を迎える。つまり人生とはすべてを失う時限爆弾を抱えているというものですが、それもその人にとっては「方便」であるという事になるのかもしれません。人生とは「死」があるからこそ、そこから翻り、如何にこの限られた生の時間を、自分自身として有意義に意味ある生き方をしていくのか、真剣に考える切っ掛けともなるという事かもしれません。
もし安易に「自分の人生には死後の世界もあり、自分という存在はこの先も続く事なのだ」という事を信じたり、また「老いて死ぬこと」を真面目に考えないのであれば、人生、貴重な時間を浪費するという事にもつながってしまうのかもしれません。
◆仏と衆生の関係
久遠実成の釈迦は、無始無終の存在であり、その久遠実成の釈迦は仏としてあらわれ人々に法を説き、そしてもう一方で久遠実成の釈迦は、法を求める衆生としてあらわれ、仏から教えを受け仏となる。つまり衆生も仏も、ともに根源的には久遠実成の釈迦の活動という事、これが如来寿量品から読み取れます。そしてその活動はこの娑婆世界では一瞬たりとも止む事なく続いているというのです。
ここで一念三千という天台智顗の唱えた論理を考えると、十界互俱という事で九界(地獄から菩薩界)にも仏界は具わるし、仏界にも九界が具わると述べていました。この事を如来寿量品ではより具体的に述べているやに思えます。そして仏が法を説くというのは、この心の形と言ってよいのでしょうか、そういった事を人々が理解する様に様々な方便を述べながら教導しているという事なのかと思います。
(続く)