自燈明・法燈明の考察

法華経は宗教不要を指向している

 今年も様々な思索をしていきたいと思いますが、今回は「宗教」という事について少し書いてみます。

 年明けの記事でも少し触れましたが、日蓮の開目抄にある「四教の因果と本門の因果」について、ホームページに記事をアップしました。

 

四教の因果と本門の因果

以前に私はブログで「幸福が目的ではない」という事を書かせてもらいました。良く人は「幸せになるために生まれてきた」という言葉もありますが、私達は何のためにこの世界...

自燈明・法燈明(真実への追求)

 

 日蓮正宗や創価学会、顕正会で良く言う「広宣流布」とは、法華経の思想を後世に伝えて途絶えさせる事が無いように、という言葉です。それを日蓮正宗では過去に「天皇が入信する」とか、「国民全員が日蓮正宗の信心をする」という解釈をしてしまい、創価学会や顕正会も馬鹿正直にそれを信じてしまいました。

 その「広宣流布」という言葉によって、創価学会は政治の世界にしゃしゃり出てしまい、顕正会に至っては未だに「国民の大多数が入信する事」だと言っています。

 しかし法華経には何が説かれていたのか。

 日蓮は開目抄の中で「四教の因果」と「本門の因果」という事を明かし、その肝心要なものを「一念三千」だと述べました。

 しかしこの事を良く良く読んで考えてみると、これは何も特定の宗教や宗派を拡大するとか、そんな事を述べている訳ではないんですよね。日蓮自身も妙密上人御消息の中で「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず又末葉にもあらず」と言っている様に、そもそも新しい宗派を起こすという考えは無かった様です。現に弟子の白蓮阿闍梨日興師が写本した立正安国論には「天台沙門日蓮」と書かれている様に、恐らく日蓮は天台僧としての自覚のもとで、国家諌暁をしていた節も見られたりします。

 ここで言う宗教とは「間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のこと」を指します。

 いいですか、「社会集団」を宗教として定義しての話です。

 過去の先哲の思想を学ぶ事や研鑽する事、これは人間としては大事な事だと思います。またそれを信仰して日々の自分の生活の糧や支えとするは良いでしょう。問題はそれを「社会集団」として行う事、これが宗教なんですね。

 法華経の「広宣流布」という事を、日蓮正宗や創価学会などは「宗教」として解釈をしてしまい、結果として多くの人が、その社会集団に付き従わせ、自発能動と誤解をさせてその集団の利益の為に働かさせている。私はその様に解釈しています。

 そんな宗教なんて不要なのではありませんか?

 世界に眼を転じてみると、いま中東で起きているイスラエルとハマスの戦争も、その根っこには宗教が関与しています。また陰謀論界隈で語られている事ですが「人口削減」を真面目に考えて実行している人物が世界には居ますし、「ハルマゲドン(世界最終戦争)」を真面目に考えている人物もいるやに聞きますが、そこにも宗教は関与しています。

 人にとって宗教とは「最大のウィークポイント(弱点であり、リスクと言っても良いかと)」で、そこを握られると人はその宗教の下僕として自ら進んで生きて行ってしまいます。

 そんな宗教から自立を促す思想が、実は「本門の因果」という考え方の中にある様に私は考えているのです。

 人にとって信仰は必要でしょう。しかしそれはあくまでも個人の内面的な世界の話です。人を自在に操る事の出来る「宗教」は、人類にとって百害あって一利無しなのではないでしょうか。

 私はその様に考えています。


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