創価学会では、今や聖典扱いになっている「小説・人間革命」の冒頭にある以下の言葉を、会員達に信じ込ませています。
「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする。——これが、この物語りの主題である」
つまり一人が宿命転換すれば、人類全体の宿命転換が可能になる。その事を言いたいのですね。あとよく使う言葉には「一念が変われば、自分が変わる。自分が変われば、環境が変わり、世界が変わる」という言葉ですが、これも人間革命冒頭にある先の言葉から派生したものでしょう。
だから創価学会の中で活動していると、ある意味で全能感を持ち始める人も出てきたりします。「全ては自分次第である!!」という事ですね。
確かに日蓮の言葉には「依正不二」という言葉があります。依法とは「環境」を意味し、正報というのは「主体たる自分」を意味します。そして依正不二とは「自分と自分の住む環境は二にして不二」という意味であり、これは環境と自分は相互に影響しあいながら存在するものであり、言葉としては二つあるが、実は一体な存在であるという意味です。
創価学会ではこの論理を用いて、自分と自分の住む環境が一体であるのであれば、自分自身で環境は変えて行けるのである。と会員には教えています。だから先の人間革命の冒頭に、あの様な言葉を書き記していますし、それを学んだ会員も、自分が変われば全てを変えていけると信じているのです。
またこの教えは組織に対する不満を抑え込む理論としても、組織内では利用されています。それは「君が気に入らない組織であれば、自分自身で組織を変えていけば良いのだ!」という幹部連中の指導ですね。これも人間革命の中で、戸田城聖から山本伸一に言われた言葉として紹介され、それを根拠に言われている言葉です。だから組織に矛盾を感じた人でも、組織内で問題点を指摘する事なく、無駄な徒労を組織内でしてしまうという事もあるわけです。
この依正不二を元に、「一人が変われば環境が変わり、世界が変わる」という言葉ですが、実は重要な観点が抜け落ちているのですが、皆さんの中で解る人はいるでしょうか。それは「縁起」という思想です。
仏教の基本的な考え方の一つとして、この「縁起」があります。それは以下のものです。
「他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。」
この縁起の考え方の一つとして、仏教のナーガセーナ長老と、インド・グリーク朝の王メナンドロス一世との対話「ミリンダ王の問い」というものにある「名前と存在」という対話を紹介します。(少々、長文となりますがよろしくお願いします)
・ミリンダ王はナーガセーナ長老とあいさつをかわし腰を下ろしてから、ナーガセーナ長老に名を尋ねる。ナーガセーナ長老は、自分は「ナーガセーナ」と世間に呼ばれているけれども、それはあくまでも呼称・記号・通念・名称であって、それに対応する実体・人格は存在しないと言い出す。
・ミリンダ王は驚き、実体・人格を認めないのだとしたら、「出家者達に衣食住・物品を寄進しているその当事者達は一体何者なのか、それを提供されて修行している当事者達は一体何者なのか、破戒・罪を行う当事者達は一体何者なのか」「善も、不善も、果も、無くなってしまう」「ナーガセーナ師を殺した者にも殺人罪は無く、また、ナーガセーナ師に師も教師も無く、聖職叙任も成り立たなくなってしまう」と批判する。更に、では一体何が「ナーガセーナ」なのか尋ね、「髪」「爪」「歯」「皮膚」「肉」「筋」「骨」「骨髄」「腎臓」「心臓」「肝臓」「肋膜」「脾臓」「肺臓」「大腸」「小腸」「糞便」「胆汁」「粘液」「膿汁」「血液」「汗」「脂肪」「涙」「漿液」「唾液」「鼻汁」「小便」「脳髄」、「様態」「感受」「知覚」「表象」「認識」、それらの「総体」、それら「以外」、一体どれが「ナーガセーナ」なのか問うも、ことごとく「ナーガセーナ」ではないと否定されてしまう。
・嘘言を吐いていると批判するミリンダ王に対し、ナーガセーナ長老は、ミリンダ王がここに来るのに、「徒歩」で来たか、「車」(牛車)で来たか尋ねる。「車」で来たと答えるミリンダ王に対し、ナーガセーナ長老は「車」が一体何なのか尋ねる。「轅(ながえ)」「車軸」「車輪」「車室」「車台」「軛」「軛綱」「鞭打ち棒」、それらの「総体」、それら「以外」、一体どれが「車」なのか問われるも、ミリンダ王は、それらはすべて「車」ではないと否定する。
・先程の意趣返しのように、ミリンダ王は嘘言を吐いているとからかうナーガセーナ長老に対し、ミリンダ王は、「車」はそれぞれの部分が依存し合った関係性の下に成立する呼称・記号・通念・名称であると弁明する。それを受けて、ナーガセーナ長老は、先程の「ナーガセーナ」も同様であると述べる。ミリンダ王は感嘆する
以上となります。
この「ミリンダ王の問い」では、自分自身も全ての縁の上に存在する事を、ナーガセーナ長老は述べていますが、これと同様に私たちというのも、社会の中の縁の上で生きており、けして自分自身「だけ」が主体ではなく、社会に住んでいる多くの人の関係性の上(縁)に存在しているという事が前提となります。そしてその様な個人の集まりである社会が環境に影響し、また環境は社会へ、そして個人へと影響し合いながら存在しているのです。
本来、仏教の観点で考えるのであれば、「依正不二」という事についても、この様な「縁起」の考え方を起点として捉えるべきではないでしょうか。
これは一念三千の観点からも考える事が出来ます。
一念三千では「五陰世間(自分)」「衆生世間(社会)」「国土世間(環境)」の三世間にそれぞれ百界千如があると述べています。ここで何故「五陰世間」と「国土世間」の間に「衆生世間」があるのか。これは人間とは社会と関係性を持つ存在であるという事を示しているからだと思うのです。
翻りここから先の人間革命の冒頭文を考え直してみると、以下のものになります。
「一人の人間における偉大な人間革命は、社会との間で相互関係を持ちながら、やがて一国の動きとなり、それはさらに全人類の在り方にも影響を与える事が出来る」
ここでは「偉大な人間革命」という、一人の人の心の中に起きた働きがもしあり得たとしても、それは社会の中で多くの人々との間で相互に影響を与える事があっても、それがそのままダイレクトに全ての人々の心に上塗りの様な影響を与えるものでは無いと思います。一滴の液体が幾ら青くても、周囲の色合いと混じりながら必ずその色は青から変化をしていくものです。そしてその青を基にして変化した色が、結果として全人類の中でどの様な色になっていくのか、そこは実に不明確なものと言っても良いでしょう。
全ては周囲との縁起によって動いていきます。そしてその縁起によって動いたものは、自分自身にも当然、影響を与えてくるものなのです。けして「自分から社会へ、そして全人類へ」という一方通行の全能的な事には成り得ません。
こういった一人の人間と社会の関係性、そしてその社会が環境をどの様に創り出していくのか、諦かな観点で見ていく事が、今の時代では一番大事な事ではないでしょうか。