自燈明・法燈明の考察

仏教は何か変容を求めているのか

 間もなく日本では「お盆」の季節ですね。このお盆というのは元々は盂蘭盆会という仏教の行事ですが、その淵源は仏教説話によると、釈迦十大弟子で神通第一の目健連尊者が、神通力をもって亡くなった母親の姿を見ると、餓鬼道に堕ちている姿を見て、そこでひたすら飢えている母親に対して目健連尊者は、神通力を以て様々な供物を与えたのですが、尽くそれら供物は業火となり、母親を焼いて苦しめたのです。悩んだ目健連尊者は釈迦に相談をしたところ、十方の修行者を供養しなさいと言われ、その通りにしたら母親は餓鬼道から救われたという話が元になっているようです。

 何だか死者をダシにして、供養を貪ろうという、一部出家者の考えだした様な話ですが、この本意はどこにあったんですかね。
 釈迦は出家者は葬儀に関与せず、自らの修行に励むように遺訓されていると聞きますが、今の日本では出家者と言われる僧侶たちも、葬儀に関わらないと生活出来ないですからね。

 今日の本題に入ります。今回は葬式仏教について語る内容ではなく、成仏という事、また仏という事について少し私見を書いてみたいと思います。

 ツイッターでは未だに「法華経の智慧」という、池田氏の著作が貼り付けられるbotがありまして、そこでは過去に池田氏が語った法華経観が語られています。
 そこで語られるのは、私達には仏の境涯が宿っているとか、その仏の命を開発強化しなければいけないとか、成仏する為には等など、如何にもそれらしい事ばかりでした。

 しかし日蓮の開目抄や如来滅後五五百歳始観心本尊抄等を読み、法華経如来寿量品を読んでみると、この「法華経の智慧」で語る「仏」とか「成仏観」というのは、日蓮の言葉を借りれば「四教の因果」の範疇ではないかと思うのです。
 四教の因果とは、五時八教の中の分類で言えば、華厳時から般若時という爾前迹門の成仏(果)と、それに至る修行(因)を指している言葉です。これは修行と成仏は異なるタイムラインにある事から「因果異時」と言われています。

 しかし法華経如来寿量品で説かれる久遠実成の成仏観はそれとは異なっています。ここでは釈迦は元来仏であり、菩提樹の下で悟りを開いて成仏したのではないと宣言しています。これは大乗仏教における「仏」という事、また「成仏」という考え方の大転換を示した事だと私は捉えています。この如来寿量品では久遠実成した釈迦は常に「我本行菩薩道」と語り、この娑婆世界に於いて常に菩薩として行動をしてきた事を明かし、これこそが本門の因果と説きました。これは修行する姿(因)と成仏(結果)は同時に備わる事を説いていますが、これが因果倶時と呼ばれる事です。

 だから池田氏が法華経の智慧で語る「仏の命を持つ」とか「仏の命を開発する」、ましてや「それが成仏の直道」なんて話は、法華経の成仏観とは違うと私は感じています。何故なら私達は元来が仏なのですから、そこに何か特別な差別や変容というのは存在しないのです。

 以前にある研究会の動画を見た事がありました。そこではこの「元来から仏である」という思想に近いものとして「本覚思想」というのが大乗仏教にはありますが、それを批判して「それなら仏道修行に意味が無いではないか!」という意見が出ていました。確かに私達が既に仏であれば、何も出家したりして修行する事にも意味が無くなるという事には一利ある話です。またそもそも私達が仏と言うのであれば、人は何故、四苦八苦に苦しまなければならないのか、そんな想いも当然出てくる事でしょう。

 では元来、私達が仏であるとして、何故私達は日常生活の中で、悩み苦しんでいるのか、仏とは本来「三惑已断」と言って、それらの悩みや苦しみを断ち切った存在ではなかったのか。

 私が想うに本来の私達は、それらの悩みに巻き込まれなくても良い存在なのかもしれません。実は私達が悩む原因の根本を探っていくと、この元来ある私達自身の姿を、私達自身が信じれないという処から、全てが始まっているのかもしれません。また生まれた時に持ち合わせた悩みや苦しみ、また生きて行く上で経験する苦悩も同様に、実は私達自身が自分の在るべき姿を理解してない心により感受してしまっているのかもしれません。

 この事をもっと端的に言葉にすると、自分自身という存在を信じることが出来ない、つまり「自信の無さ」に全ての要因があると思います。

 この様に考えていくと、やれ私達の命の中に仏がいるとか、仏の境涯を開発するという言葉なんてのは、そもそも仏というあり方を誤認識させてしまう言葉だと、私なんかは感じてしまうわけです。私の考え方からすれば、内在とか開発、ましてや境涯を開くなんていう事ではなく、己自身を信じ理解する事が必要なだけだと思うのです。

 だから仏道修行と言っても、何か意識変容を求めるものではなく、この「己自身を信じ、理解する事」の為に行うべきであり、そこに何かの変化を夢想して行うものではない。これが今の私の考えている事です。

 かくいう私も、実はこの事を完全に理解して信じきれている訳ではありません。創価学会の活動から離れて十年以上の年月が経ちましたが、その間にはそれこそ活動家が「それ見ろ!仏罰の現証だ!」という様な状況に何度も遭遇してきたことがありました。私もこういう事に遭遇した時々に、確かにそうなのかもしれない、と自分の心が動揺した事が幾度もありました。
 しかしそれらの出来事に遭遇しても、けして自分自身を卑下する事なく、自分自身がこの世界に生まれてきた意味を思い、自分自身を信じる事で乗り越えてくる事が出来ました。だから今の私には、創価学会の組織は必要ないし、そんな宗教への依存心も、かなり無くす事が出来たと思います。

 考えてみると多くの宗教は、自分達の教えや本尊、そして教団への依存心を掻き立てる為に、自分達の教団にいれば意識変容の様な事が起きるし、その必要性を訴えています。しかし私達にはそんな事は、本来必要なく、必要としない存在である。そしてそういった自分自身への気付きも今の時代なのですから、持たなければならないのかもしれませんね。


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