日本国内では対馬で線上降水帯が見られ、それが九州方面にも移動していて、集中豪雨が起きているようです。また先日、私も関東山沿いのとある地域に遊びで出掛けたのですが、道路が最近の集中豪雨で落石があったようで、幹線道路が通行止めとなり、他の峠道を迂回させられました。
確実に地球の気象は変化していますね。もう過去の世界ではないのでしょう、今の世界というのは。そんな風に感じています。
日蓮正宗や創価学会では、過去に立正安国論等を引用し、国に正法が無いから天変地夭が起きると主張していましたが、ここ最近の異常気象とそれによる災害について、特に創価学会の今の見解伺いたいものですね。創価学会が公明党を通じて政権与党に入り、既に二十年以上経過しましたが、この日本や世界の現状に対して、一体どの様な見解を持っているのか。少なくとも創価学会で言えば、公明党が過去一番の権勢を振るっているのが現在ですが、公明党の躍進が広宣流布のバロメーターだと教え、選挙活動を煽ってきましたが、国や社会は疲弊を続け混乱を増しています。ましてや気象関係も大きな変動期に入り、災害も立て続けに起きています。
「雨土くれを砕かず世は義農の世となりて」
そんな日蓮の言葉を使い、言ってませんでしたか?
でもそんな事を言っても「広宣流布が進んだ事による魔仕業だ」なんて平気に言われそうですが。
私も若い頃から創価学会にほだされてしまったので、ここ最近の日本の社会情勢から世界情勢、またこう言った天変地夭とも言える異常気象やパンデミックといった出来事には、いろんな事を考えてしまい、自分自身の心が何時もざわめいてしまいます。
しかしこんな世界的な動き事なんて、日本にいる一介のサラリーマン私がどんなに騒ごうと、意見を表明しようと何も変わりはしません。ましてや様々な国や人々の思惑が絡んだ事なんて、巻き込まれる事はあったとしても、私がイニシアチブを持てることなんて、天地がひっくり返ってもありえません。
私が出来ることなんて、せいぜい両腕を広げて173cmの長さで抱き抱えられる程度の事でしかないのです。
世情がどんな状況に陥ろうと、それにより私の生活面でどの様な事態が起きようと、私はこういった自分自身に舞い込む様々な状況を掻い潜り、この人生を生き抜かねばなりません。それこそが私の人生の目的だと、私は決めています。別に誰かに与えられた事ではなく、自分自身で決めているのです。そこで私自身、大事な考え方としているのが、古代中国から伝わる以下の言葉です。
「人生、塞翁が馬」
私も曲なりに人間を五十年以上生きてきました。その中では様々な事を経験してきました。それこそ創価学会で言う処の「体験発表」クラスの良い事から、生きていくのも辛い様な出来事、赤面してけして人には言えない様な、いわゆる「墓場まで持っていこう」という話まで。恐らくそのバラエティさで言えば、中々の人生をここまで生きてきました。
こういった経験もあって、私はどんなに悪い事があったとしても、けして諦めることなく、楽しい事があっても浮かれる事がなければ、人間、何とか生きていけるものだと考えるようになりました。大事な事は、自分自身がこの世界に生きているという事は、けして「無意味なことでは無い」と信じる事だと考えるに至りました。
それを端的に表現された言葉が、「塞翁が馬」という逸話なのです。
世の中様々な宗教では、人生の良いことは宗教を真面目に信じた結果だと言い、悪いこと起きるのは不信によると説いています。そしてその宗教を信じる人多くの人達が、そんな宗教に振り回されてしまっています。最近話題になっている統一協会への莫大な献金、それによる家族の崩壊などは、その具体的な姿を表しています。しかし恐らく様々な宗教の教義の大元となっている始祖が残した教えとは、そんな宗教の教えとは異なるのではないでしょうか。
だから人は宗教に振り回されないように、信じるにしてもその宗教の始祖の言葉を良く良く学ぶべきであり、けして宗教という社会的な集団の指導者の言葉を鵜呑みにすべきではないのです。
また人は自分自身を信じるべきであり、その為に様々な先哲の言葉や歴史の出来事に耳を傾けるべきであり、シニカル(冷笑的)に人生を捉える事も避けなければなりません。それではこの人生という大事な機会逸してしまう事にもなるのです。その上で「塞翁が馬」様な姿勢が大事だと思うのです。
今の世界。人間にとっては生きづらい時代になってきています。世界の情勢は様々な事がありますが、それらに振り回される人生ではなく、その中でも一人一人が自分らしく生きていく事に勤める事が大事になるのではないでしょうか。