この週末は散歩をかねて史跡巡りをして来ました。史跡を見ながら往時の事に思いを馳せながら、そこかしこにある満開の桜を眺めてきましたが、気分転換にはもってこいでした。
最近、私は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にはまっているので、近々伊豆や鎌倉、そして房総半島まで足を伸ばしてみたいと考えています。
さて、ここ最近では「人生百年の時代」という事が盛んに言われていますが、本当に人が百年生きる時代に来ているのでしょうか。昨今の新型コロナ禍への複数回にわたるmRNAワクチン接種の広範囲化、またそれに関連して除菌や抗菌の徹底ぶり。そして社会の中にある様々なストレス。いま確かに日本人の平均年齢は八十代に来てますが、これらの世代が成長し、生きてきた時代と今の時代では様々な事が変化しています。果たしてこれからの世代が今より平均年齢を伸ばせるのか、誰が断言出来るのでしょうか。
あともう一つ。社会が高齢化になった事で、介護の問題も増えてきてやしませんか?
「人生百年」なんて言われ、ああ私たちも長寿社会になったんだと考える人が多く居ると思いますが、やはり人間老いていけば、体のあちらこちらに不調を抱えるという事には変わり無いので、現役時代そのままという訳には中々いかないと思います。そこには介護という事も増えていきますが、これから先の高齢化社会で果たして質の高い社会サービスが広くあまねく提供されるのか、実はそこは誰も保障してはいないのです。
この様な事を考えてみると、単に「人生百年時代」というのも、けして喜ばしい事という様と私は思えないのです。
ここまでは社会的な視点の話ですが、もう一つの視点として「老いていく存在」としての視点も考えなくてはなりません。私たちは、本人が望む望まないに関係なく、精神や肉体は老いていきます。こればかりはどうにもなりません。世間には様々なアンチエイジングの製品やサービスがありますが、これらを利用しても、老いの速度を遅らせるだけであり、確実に老いというのは進行していきます。
そして老いの先には必ず「死」という事が存在します。そしてこれを避ける方法なんてものは無いのです。
私もいよいよ五十代の後半に差し掛かって来たのですが、こういう「老い」そして「死」という事から最近では思考が離せなくなってきています。若い頃には考えもしなかった事が、最近では目の前に様々な姿を持って現れてきます。例えば仕事の事。定年制というのが会社には存在しますが、わたしもその定年という年齢が見えてきています。若い頃の様にスキルアップだキャリアアップなんて観点は、そこには存在しません。あるのは定年後どの様に社会と折り合いを付けながら仕事出きるのだろうか、そんな事を考えています。
また私は趣味で、バイクで小旅行するというのがありますが、テレワークとなりバイクを手放してしまいました。ここで新たなバイクを購入するにも、やはりこの先の仕事の状況が気がかりで、中々購入に踏ん切れない事もあります。またこれには肉体の衰えもありますので、果たしてあと何年バイクに乗ることが出来るのだろうかという不安も出てきたりします。
特にこの「死」というのは如何なる事なんでしょうか。その事について考えてみます。
よく「死ぬほど苦しい」という言葉がありますが、この苦しいという事には、肉体的なものと、精神的なものがあるでしょう。人が死ぬ場合には、健康体で死ぬことは無いので、やはり必ず肉体的な病気が付きまとうと思います。だから「死の苦しみ」には病による苦しみというのが必ずつきまといます。仏教では「断末魔の苦しみ」と言いますが、これは古代インド医学で「マルマ」という考え方から来ていると言います。これは肉体と命を結ぶ場所(マルマ)が、人体には108箇所あるといい、死ぬ時にそこに触れる事で大きな苦痛を感じるという事から来ていると言われています。でも近年の医学では、こういう肉体的な苦痛はかなり緩和することも可能になっています。
あともう一つ、死有(亡くなったとき)で三途の川を渡る際、そこには奪依婆がいるという話もありますが、これは死の時には財産や地位や名誉といったものは、全て失う事の暗喩と言われていますが、要はこの人生で得たモノは全て失うという事であり、これは最愛の家族とも別れなければならない事を意味します。
「死」という事を考えたとき、肉体的な苦痛もそうですが、この人生で当たり前のように有るものですら、手放さなければいけないという、精神的な苦痛も考えておかなければならないという事なのです。これには初期仏教で言われている「執着する心を断じる」というような心構えも必要になってくるのかもしれません。
このように、人生百年時代とは要っても、結局、人は必ず死ぬべき存在であり、この人生とは有限な事だと理解する必要がある事に何ら変わるものではなく、その為にも人は限られた時間の中で、しっかりと自分自身を理解し、この人生への意義付けをしっかりするという事に勤めていかなければならないと思うのです。
「人生は百年と長くなったな」と、無為に過ごすうち、命数の限りはどんどんと近づいてくる事は、何も変わっていないのですからね。ましてや「生涯青年部の気概で」なんてやっていると、大事なタイミングすら逸してしまいますよ。