自燈明・法燈明の考察

法華経にある広宣流布の意義

 今日も冷え込む朝でした。普段は家籠もりで仕事をしていますが、今日は客先での作業があり、通勤電車に乗ってます。再度の緊急事態宣言の最中ですが、仕事は止められないので、必要最低限の行動で取り組んでいます。

 しかし飲食業を始め、多く人達は経済活動が制限され、苦悩に喘いでいます。ほんとに今の人類社会は新型コロナに過剰反応していますよね。確かに新型コロナウイルス疾患は重篤化する可能性もありますが、しっかりと体調管理して、接触関係に気を配れば、まだ感染をコントロール出来ると思うのです。しかし今の世の中、過剰反応しては居ますが正確な情報を得られていない人が多いのかもしれません。そういう意味で私は「社会のサイトカインストーム」だと感じているのです。

 まあサバイバルな時代になってしまったと言うべきかもしれません。

 さて、今回の記事は法華経にある「広宣流布」の意義について少し思う事を書いてみます。

 日蓮正宗が考えていた広宣流布観とは、三大秘法禀承事という御書にある国になる事でした。

「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」

 ここでは戒壇(大本尊を安置して修行する場所)を建立する条件について述べているのです。
 まず始めに「王法仏法に冥じ」とある様に、信じる教えの中に国の法律の考え方が交じり合い、「仏法王法に合して」と仏法と法律が一体となった状況になる事だと原文では読み取れてしまいます。しかしこれでは仏法自体が国の法律になる様に思えてしまい、結果として「王仏顕合」となってしまいます。それこそイラン等の様にイスラム国家がイスラム教を国の法律として位置づけしていると同じ様な事になってしまいます。それではあからさまでイカンと思ったのかも知れませんね、宗門の歴史のどこかにいた人達は。その事もあってか日蓮正宗ではこの部分を「仏法王法に冥じ」と国の法律の基本的な考え方に仏法があり、「王法仏法に合して」と法律の精神と仏法の精神が同じ様な状態になる、いわゆる「王仏冥合」という言葉を造り出しました。

 そしてそんな社会となった時、「有徳王と覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と、仏法説話の有徳王と覚徳比丘にある状況になると言うのです。

 ちなみに有徳王と覚徳比丘の説話では、国中が誹謗の人達で充満する中、正しい仏法を修行していた覚徳比丘が迫害をされる訳です。するとその国の有徳王という王様が、兵士を連れて覚徳比丘を守るために大戦をして、最後には王様は全身に深手を負って亡くなってしまうという説話です。変ですね、社会に仏法が根を張る時代なのに、国中に謗法の輩が充満して、正しい教えを修行している僧侶が殺されそうになる状況となり、それを王様が武力を持って守る状況になるというのですから、今一つ辻褄が合わなくなってしまいます。

 顕正会では、この事を「護法の精神が漲った状況」と、また少し変な解釈をしていましたが、恐らく宗門としてもその様に考えていたのでしょう。
 そしてそんな社会情勢になってから、勅宣(天皇の詔)と御教書(時の幕府からの命令書)を持って、一番良い場所に戒壇は建立されるのだと解釈していたのです。

 だから初代牧口会長や、二代目戸田会長も「国立戒壇」を目指して、まずは人を増やす事に専念したんでしょう。そして自分達の組織の人数が増えれば、日本の社会はこの三大秘法抄にある通りに平和で安穏な国になると信じていたのです。

 この事は「創価教育学会本部関係者の治安維持法違反事件検挙」という表題の尋問調書の中で、滔々と牧口会長は主張をしていた事が記録されています。ちなみにこの尋問調書は「特高月報」という公文書に記載されているので、偽書ではありません。れっきとした公式文書です。

 しかし現実は全く違いましたね。一昔前には創価学会は公称800万世帯で、得票数は900万票近くの勢力まで行きましたが、その結果として出来上がったのが今の日本社会です。創価学会の幹部連中は戦時中の大本営発表よろしく、世界に称賛され拡大した創価学会、そして陸続と人材が排出される創価学会をアピールしてますが、現在では青年部も絶滅危惧種の様な希少な存在となり、組織の末端は老人会の寄り合いよろしくの状態。幹部は役職を複数兼任して、皆が組織活動で疲弊している状況です。

 何が間違えたのか。少し心ある人達は考えるでしょう。
 私の先輩で学会活動から抜けた人達は一様に言います。「人間味がなくなった」「官僚主義が横行した」「池田先生という原点を見失った」。様々な意見がありますが、私が思うに、有り体に言えばそもそもの思想が間違えていたのです。そしてその間違えた思想を背景にして醸成された組織文化が狂っているから、こんな組織になってしまったのです。

 そしてそんな狂った組織が熱烈に応援して国会議員を送り出し、その議員達も日本の権力層の補完勢力となった結果が、今の日本社会なのです。

 こんな事、少し考えたら判るではありませんか。
 では何を一体間違えたのか。

 それを理解するには、そもそも法華経の「広宣流布」とはどういった考えなのか、そこを確認する必要があります。ここからは私自身が解釈した内容について少し書いてみます。

 まず法華経は何を説いたのか、それは「久遠実成」という事を明かした事につきると私は考えています。これについては前回の記事にも書きましたが、それは成仏という従来の考え方、また仏の存在の考え方の大転換です。そして人は差別分断という事から、相互理解と多様性理解が本筋である事を明かしました。

 悩み法を求め修行する人も、教化する仏も共に「久遠実成の釈迦」の姿という事は、その事を指し示した事でしょう。

 だから法華経を弘めるというのは、この「久遠実成」で明かされた仏と私達の関係性を弘めるという事だと私は理解しました。(まあ我見と言われても反論はしません。確かに私見という「我見」の論理です)

 そして法華経の薬王菩薩本事品第二十三で宿王華菩薩という、無名の菩薩に対して釈迦は語り掛けているのです。

「是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。
 我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、
 断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を
 得せしむることなかれ。
 宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。」

 ここがとても重要な事だと思うのです。広宣流布という言葉を釈迦は「久遠の弟子」である地涌の菩薩には語っていません。あくまでも会座に居た無名の菩薩に対して語り掛けたのです。

 そしてここで「広宣流布して断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。」とある様に、人々の間でこの法華経の思想が途切れ、その結果、人々を分断し食い荒らす魔民や悪鬼などに、動き回る様な隙を与えてはならないと述べています。

 つまり常に人々の中に啓蒙し、この法華経の思想が絶えない様にしなければならないと宿王華菩薩に語り掛けているのです。

 釈迦は地涌の菩薩には、滅後の弘教を託しました。これはある意味で仏教の本筋を連綿と受け継ぐ事を意味しているのかもしれませんが、広宣流布とはそんな地涌の菩薩が行うのではなく、その傍流とも言える人達が行う事だとも考えられませんか?

 傍流の人達が語らう為には、仏教の教えというのは常に時代に即した教えでなくてはいけません。そして即した教えを説くのは地涌の菩薩の役割であり、その事と連動して、その地涌の菩薩の周囲に、法華経の精神を常に啓蒙しつづける人達が出現する事が広宣流布なのではないかと、私は考えているのです。

 そういった動きとなれば、社会の中では分断とか差別という、人々を苦しめる動きは起こらなくなるのかもしれません。

 いかがでしょうか。
 これは私の個人的な私見ですが、少なくとも日蓮正宗の考えていた事、そしてそれを受けて活動を展開してきた創価学会の動きというのは、そもそも法華経の本義から外れているのではないでしょうか。

 単なる「人集め」とか「権力層への布教」、ましてや日蓮の文字曼荼羅のばら撒きが広宣流布では無いのではありませんか?

 日蓮とか仏法とか語る前に、そもそも論を見直すときに来ていると、私は常に考えているのですが、未だにそこまで辿り着いていない事が残念でなりません。


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