自燈明・法燈明の考察

成仏に関する一考察だよ

 今日も冷え込む一日ですね。テレワークはコタツでやってますが、背中なんか冷えて寒いんですよね。でも富士山には雪が少ないとも聞いてます。やはり何かが狂っている様にも思えてしまうんですが、如何でしょうか。

 さて今日は、成仏という事について少し取り上げて見たいと思います。創価学会にしても日蓮正宗関係者にしても、未だに成仏という事には独特の拘りがある様に、私は感じています。創価学会では成仏というよりも「境涯革命」という言葉になっているんですかね。その事について書いてみます。


 仏教では仏という理想の姿を目指した宗教です。ただしこの仏という姿には、私は3種類あるのかなと考えています。

 一つは初期仏教(原始仏教)にある、インド応誕のゴーダマ・シッタールダー(釈尊)の姿です。三惑を断じて開悟し、悟りを得たという姿です。これは私見なのですが、この釈迦の姿とは灰身滅智して三惑已断という姿なので、阿羅漢果の先にある姿に見えます。ある意味でとても人間的な姿にも思えるのです。
 二つ目は大乗仏教に説かれる仏達です。三千大千世界(全宇宙)に遍満する仏世界に存在すると云われ、何やら人間離れしたような存在で、どちらかというと宇宙のあちらこちらに損座する「スーパーサイヤ人」という感じで、完璧な存在としての「仏様」です。いま多くの日本人が認識している救済者としての仏とは、この大乗仏教の仏様です。
 三つ目は法華経如来寿量品で説かれる久遠実成の釈尊の仏様です。こちらは全ての存在の根源的な存在としての仏であり、先の二つの仏を包含するものと思えます。

 この事から、成仏(仏に成る)と言っても、どの仏になるのか。それぞれの話がこの言葉にはあるので、それぞれがテンデンバラバラな話になったりしています。そしてこれが仏教をして目的とする成仏という事の具体性に欠けると言わしめていると思うのです。

 初期仏教(原始仏教)の成仏は灰身滅智なので、ひたすら煩悩や執着から離れる事を目指し、人々は出家して苦悩の本質を学び修行に励みます。東南アジア方面の国々に見える南伝仏教の姿ですね。
 大乗仏教の仏とは、完璧な姿の仏の説く教えを学び、人々は菩薩の行動を取る中で、それそれが完璧な姿の仏を目指し、修行に励みますが、歴行修行(輪廻転生を繰り返す中の修行)を伴う様に見えたりします。
 法華経如来寿量品の久遠実成の釈尊は、先の二つとは異なり、人の心の奥底(根源)は仏であり、その仏とは大乗仏教にある完璧な存在だと言います。この事から「本覚思想」という考え方も出て来て、修行をしなくてもありのまま私達は仏なんだと言う考え方や、創価学会では人間とは仏を内在する尊極な存在という事から、人間主義を展開しています。

 まあ本来、仏教徒の目指す姿は仏なのですが、人間とは「聖(ひじり)」を求め、そこに救済者を見てしまうので、いつの間にか仏教の仏も目指すべき姿ではなく救済者となり、人々は仏様におすがりして救ってもらうという考え方になっています。

 創価学会や日蓮正宗でも「御本尊様おすがり信仰」となっていて、そこからおすがりする日蓮の文字曼荼羅に対しても「本物」だとか「偽物」だという様な議論も出てきたのではないでしょうか。

 因みに日本社会に未だ広く根付いている「死んだ人=仏様」という、本来の仏教には無い考え方を根付かせたのは、やはり日本仏教界が根付かせた葬式仏教だと揶揄されてますが、そこに追う責任は大きいなと考えています。先で説明した仏教内にある「仏」の存在の多様性と相まって、この考え方も入り込んで、余計に解りづらい事になっていますよね。

 私は「成仏」と言うのは「個々人の自覚」による事かなと考えています。

 私も創価学会で教わったのは、日蓮の文字曼荼羅を「御本尊様」と呼び、そこに対するおすがり信仰でした。自分の抱える悩みや苦しみを解決する為に、長時間、お題目を唱えたり、「信力・行力で仏力・法力」なんて云う学会指導を真に受けて、学会活動に身を粉にして取り組んできました。まあ幾つかの願いは叶いもしましたが、この年齢になって思った事は、人生の艱難辛苦や悩み事には、それそれにしっかりとした意味があり、そこの経験で得られる事の方が、叶った願い事よりも私の人生の宝になっています。

 そういう事から考えると、しっかりと自分の存在の意味、そしてそれに裏付けされた自信(自分を信じる心)を持つ事の方が、遥かに意味があると感じています。

 仏教のジャータカ伝説に「キサーゴータミー」という、子供を亡くした母親の話があります。ある時、釈迦の元に子供を亡くして悲しみに暮れる母親が訪れました。母親は釈迦に「子供を生き返らせて欲しい!」と念願します。すると釈迦は「分りました。それでは今までに死者を出したことの無い家から芥子の実をもらってきてください。そうすれば願いを叶えてあげましょう」と約束します。母親は釈迦のその言葉に歓喜して、町中を一軒一軒歩いて回ります。するとどの家でも身内の死という悲劇があり、その母親もその話を聞く中で、死というのは何処にでもある。自分だけが悲しみ苦しんでいるわけではないと理解したのです。そして釈迦の元を再度訪れ、仏教に帰依して修行に励んだというのです。

 この逸話には、何ら超常現象的な奇跡もなければ、子を亡くした母親が我が子の死を受け入れるだけではなく、それをきっかけにより自身の心と対峙して理解しようとした姿に変容した事が書かれていました。私達が仏教を学び、成仏しようとする目的の一端が、よく現されている物語だと私は思うのです。

 何も今の自分の境涯が変わるとか、変革するとか、ましてや金色世界を垣間見たなんてのが成仏だとは、私は思わないのです。
 むしろそんな幻想を抱かせて、一部の宗教貴族の為に自分の人生を捧げてしまう事は、大きな問題だと思います。

 この「成仏」という言葉は、良くよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。



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