自燈明・法燈明の考察

御題目を唱えるという事

 いま唱法華題目抄を読み進めています。この御書は鎌倉の名越で著された御書ですが、その内容を読み進んで行くと、立正安国論にも通じる内容が随所にあります。恐らく後に幕府に上呈した立正安国論の思想というのは、この御書を書かれた時点で、既に骨子として、ある程度日蓮の中には固まっていたのかもしれません。

 この御書の中で日蓮は、「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし」と述べている様に、御題目を唱える事が、末法相応の修行である事を述べていますが、果たしてそこにはどの様な事があるのか、少し考えてみたいと思います。



 そもそも御題目(南無妙法蓮華経)と、ただ只管唱えていくという修行法は、称名念仏に近いものであると思います。鎌倉時代以前の仏教は、庶民への布教というのは原則行われず、もっぱら国家の安寧(鎮護国家)を基本としたものでした。しかし鎌倉時代となり、庶民の中に仏教が布教されていく中で、それまでの形式ばった修行ではなく、人々に浸透しやすい形式として念仏は広がったのではないかと思います。

 日蓮が御題目を重要視したのも、こういった仏教全体の流れに沿う事であって、そこは独自なものではないと、私は考えています。

 原始教典では「南無仏」という様に仏の名を唱える事によって、仏を具体的に感得しようという事がありました。日蓮は元は天台宗僧侶でもあったのですが、その天台宗の勤行の様式の中には「南無釈迦牟尼仏」「南無多宝如来」という念仏と共に、経典の題号に対して「南無妙法蓮華経」というものが既にありました。御題目は日蓮の専売特許という事で、間違えた認識をしている人も希にいますが、この御題目を唱えるという事は、天台宗の中には既に存在していたのです。

 ただ日蓮がこの御題目を末法相応の修行として位置づけをした事が、ある意味で新しい事であり、日蓮の独自の事であったのかもしれません。

 ちょっと角度を変えて。
 仏教のなかで密教では「マントラ」という修行があります。マントラとは、賛歌や祈り等の意味を持つ短い単語を抽象的に顕したサンスクリット語の単語です。このマントラを唱える意味というのはいろいろとあるらしく、宗教的な儀礼や祈祷で定型句として唱える呪術的なものや、瞑想する際の手助けになるものもある様です。

 私は念仏や唱題という事については「瞑想する際の手助け」という意味あいもあるのでは無いかと思うのです。これについては、唱題を行った人であれば経験あると思うのですが、文字曼荼羅に御題目を繰り返し唱えていくと、様々な事が自身の心の中をよぎっていきます。創価学会ではそれを「雑念」とか言いますが、要は自身の心の中に向き合う「瞑想」の様な効果が、唱題にはあるのかもしれません。

 この御題目には様々な意義があります。日蓮が考えた意義について、細かくは「御義口伝」に書かれていますので、詳細はまた別の時に書いてみたいと思いますが、唱題行を行うのに、創価学会や日蓮正宗では「とにかく唱える事が大事」という事で、この御題目の意義について、会員や信徒には教えません。創価学会では「祈りを叶える」という御呪いの様に御題目を理解させています。

 しかしこれは果たして正しい事なのでしょうか?

「人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされば意が声とあらはる意は心法声は色法心より色をあらはす」
(木絵二像開眼之事)

 ここで日蓮は人が声を発するという事には、二種類あると述べています。一つは自身に無いけれども人を誑かす為と言っていますが、広義で考えると人を動かすために出す事を言っています。人を動かしたいから「隋他意(他人に従うと言う意味)」の声です。そしてもう一つは「自身の思を声にあらはす事」と、自分の心にある思いを表す声があると言うのです。

 この事から考えると、御題目を唱えるというのは「自分の思」を声に現わす行為でもあり、それはつまり御題目を唱えるといっても、そもそも御題目の意味を理解していなければ、言葉の上では「南無法蓮華経=法華経に帰命する」と唱えた処で、その本当の意味は、そうはならないのではないでしょうか。

 そういう事から考えた場合、やはり御題目を唱えるのであれば、その前にしっかりと法華経で何が説かれているのか、そしてそれにはどういった意義があるのかを、会員や信徒にしっかりと理解をさせておく必要があると思うのです。最低限でも御義口伝の「南無妙法蓮華経」の部分は学ぶべきではありませんか?

 創価学会の原点は、戸田会長の悟達だという話があります。

 これは治安維持法で投獄された牢獄の中で、創価学会の第二代会長の戸田城聖氏が、「法華経の意味を知りたい」という事で唱題し、百万遍に届かんとするとき、そこで虚空会の儀式の中にいる自分自身を発見したというのです。正直、人間革命の中で、この話を読んだ時に、私は驚きを感じました。

「さすが戸田会長は凄い!そしてその直系の弟子の池田先生も凄いのだろう!」

 若き日の私は単純にその様に感じもしました。

 しかし四半世紀近く創価学会の中にいて、幹部などを十五年以上もやっていると、会内では様々な体験を見聞きしますが、その中で、必死に御題目を唱える人の中で「御仏壇が深夜に金色に輝く事を見た」とか「自分も虚空会の儀式に参加をした様な体験をした」という話を幾つか耳にする事もありました。

 そんな話を聞くたびに、「それはまてよ??」という感覚が芽生えた事を、私は覚えています。体験した人物にしてみたら、自身が経験した事なので、真実であると思い込んでしまうのは当然なのかもしれませんが、それを経験した人達のその後を見ていると、経験したから何かが違ったかと言えば、行動様式や言動も特に変わる事もありませんし、その一方で「創価学会」という組織依存はより強固になっている様に感じたりもしました。要は「信心の確信」という奴ですね。

 先にも述べましたが、御題目を唱えるというのは瞑想に近い事だと私は考えています。昔から座禅などの瞑想により「魔境」という症状が出る事が言われています。禅宗では「禅病」とも呼ぶらしく、西洋ではクンダリニー・ヨーガ等の瞑想で「クンダリニー症候群」とも呼ばれているとの事です。

 これに懸ると酷い時には「統合失調症」に成ったりする事もあるらしく、この統合失調症の症状としては「狐憑き」や「蛇憑き」という症状もあると言います。

 これらは心に溜め込んでいた不必要なものが多すぎる場合などで、ごく稀に、無意識の領域に隠れている心の大きな闇を引き出してしまう事から発症するとも言います。激しく感情が吹き出して日常生活がままならないくらい、心に深い絶望感を体験をしたり、過去生を旅したり、憑依現象を体験したりが複合的に起こる「スピリチュアルエマージェンシー」などとも言われる経験をするそうです。

 こういった事から考えると、唱題行についてもしっかりと基本を理解して取り組む必要があると思いますが、どうでしょうか。日蓮は唱法華題目抄で以下の様に述べています。

愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

 ここでいう「愚者」とは「愚かな人」という事ではなく、修行に暗愚な人という意味です。そしてそういう人が多くなった時代であれば瞑想などを先として行うべきではなく、その瞑想をしたいという人は、瞑想の基本をしっかりと修学してから取り組むべき事を述べています。

 以上の事から考えた唱題行に関する私の私見です。
 法華経の意義をしっかりと学んだうえで、日常の中で「題目三唱」とか「御題目を読誦する」という事を、日蓮は重要視したのではないでしょうか。恐らく鎌倉時代で信徒たちに「長時間にわたる唱題」という事を、日蓮は勧めてはいなかったのではないかと思うのです。そして出家者への修行法としては、長時間の唱題行という事はあったのかもしれませんが、その場合、取り組む際の重要な事は、事前に学ばせていたのではないかと思うのです。

 創価学会の戸田会長は「虚空会」に自身も居たと言います。
 しかし近年の研究では大御本尊には「弘安二年一閻浮提総総与」というものはなく、また日蓮という鎌倉時代の僧は、自身の自覚の上では法華経の中にある地涌菩薩の上首・上行菩薩の再誕であるとしていました。しかしそれは「末法の御本仏、久遠元初の当初・自受用報身如来」という事ではありません。それは飽くまでも中古天台の思想流入から出て来た珍説に過ぎないのです。

 ではそんな珍説を信じ切っても「虚空会」に参加できたという、戸田会長の「悟達」は信じるべきなんでしょうか?私はそれは違うと思うのですけどね。

 戸田会長の体験も、所詮は「魔境(クンダリニー症候群)」の一つだったのではありませんか?

 問題なのは、未だにこの戸田会長の悟達を以って、創価学会が日蓮仏法の正統後継団体だと信じている人がいる事です。

 もうそろそろ、御題目については、取り組み方についてよくよく見直しをすべきではありませんか?



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