自燈明・法燈明の考察

一人の想いと社会について

 テレワークを始めて間もなく三ヶ月になろうとしてまして、これは一年のうち四半期に渡り自宅で仕事をしているという事になります。
 私は若い時にはフリーランスの仕事をやりたいと思ってました。それは自宅で自分のペースで仕事をしたいという事から考えた事でしたが、この年になってまさかこんな形で、この昔の夢を経験するとは思いませんでした。

 自宅で仕事をするというのは、通勤に時間を使わなくなるという事は良いのですが、人との関わり方とか、仕事の進め方で想定外のストレスを感じるモノなんですね。あとやはり嫁へストレスを掛けている事でもあるのかと想います。

 だから早く以前の日常に戻って欲しいと想う、今日この頃です。



 さて、創価学会でいう「広宣流布」とは、日蓮仏法(創価学会の場合には、それを元にした創価学会の思想)を世界に広め、その教えを人々が信じる事で、この世界に平和が実現し、安寧になるという事でした。

「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする。——これが、この物語りの主題である」
(小説・人間革命冒頭部より引用)

 「一人が変われば組織が変わる」「だから君が気に入らなければ、君が気に入る組織に変えれば良い」

 こういった指導が組織内にまかり通るのも、こういった人間革命で示される思想が会内では当たり前の様に、良く言われている事からなのでしょう。

 この「人間革命」の思想の裏打ちは、創価学会の言う「日蓮大聖人の仏法」という事と、そこにある「依正不二」という考え方、あと「一念三千」という思想からなのでしょうか、恐らく創価学会ではこれらの思想の捉え方は間違えていますね。

 具体的にはどの様に間違えているのか、私の私見ですが、今回は書いてみたいと思います。

◆依正不二
 「依報」とは個人を取り巻く環境であり、「正報」とは主体としての自分の心を指します。そしてこの2つ(自分と周囲の環境)は、相互に連動しているものであって、分離されたものでは無い。これが「依正不二」という言葉です。

「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり」
(三世諸仏総勘文教相廃立)

 ここで日蓮は仏とその国土は不二である事を述べています。ここから創価学会の教学としても先に述べた依正不二の考え方も出て来たのでしょう。しかし創価学会の考え方には2つの齟齬があると思うのです。

 一つ目は、依報(環境)とは、そこに暮らす人々の、一人ひとりの「自分=自我」の相互作用の上に成り立っているという事への理解がありません。ここはひとつ、思考実験という事でこの事について考えてみます。

二人の就職戦(思考実験)
 ここに二人の人がいると仮定します。彼ら2人は共に「自分の想いで環境は変えられる=願いも叶えられる」という事を信じています。そして募集枠1名の優良企業に、この2人が同時期に就職を考えました。こうなるとこの2人が幾ら強く自分の事を信じても、1名しか就職する事は叶いません。これはつまるところ、心でいくら固く信じたとしても、そこでそれぞれの人の環境として現れる現実(就職できる)というのは、その時の会社の状況(社会の影響)を必ず受けるという事を示しています。

 「自分の環境を自分の思うとおり作る事が出来る」「自分次第で環境は必ず変えられる」という事は、真実の一分を表現している言葉かもしれませんが、社会(一念三千で言うところの衆生世間・国土世間)というのは、相互の影響の上で現実が作り上げられると言うものであって、単なる個人的な思い込みだけで出来上がるものではありません。

 二つ目は「正報」と言っても、それは日常生活で感じる「自分」ではないという事です。

心の本来の姿
 先の三世諸仏総勘文教相廃立では仏と言う事に「法身・報身・応身」という三身がある事を述べています。ここでは身・心・形の3つがあって、これらの三身をもって依正不二だと言っていますが、これはどういう事かと言えば、単純に言えば私達の心というのは多重的なものであって、単純な構造では無いという事なのです。
 「私はこう思っているから、このようにしたい(する)!」
 「私の本心はこうなんだ!」
 そんな事を考えたとしても、果たしてそれが「本心」であるのか、実はそこが解りません。ここで言われる「依正不二」の正報(主体のしての自分)とは三身(身・心・形)の上の本心であって、場合によって自分がいま考えている事が、心の本当の想いとは異なる事もあるのです。

 また別な角度から言えば、私達が日常「自分」として感じている心は「意識(六識)」であり「末那識(七識)」の範疇に入ります。この論理は九識論から引用していますが、この九識論において述べている心の姿というのは、日常、私達が感じている「自分」とは、実はその奥底の深層心理の部分からの影響も当然受けているという事であり、単純に「自分は意識してこの様に考えている」という範疇以外の「心」が常に自分の中に存在する事を理解する必要があるのです。

 以上、私が考える2つの齟齬について、創価学会の教義では教えもせず、「一人が変われば全てが変わる」と安易に教えている事から、活動家の中には大きな葛藤が生じているのではないでしょうか。

◆一念三千
 一念三千とは、単なる十界×十界×三世間×十如是という様な、算数の話ではありません。この一念三千の教えにあるのは、九界は無始の仏界に含まれ、仏界は無始の九界に具わるという事であり、無始の仏界とは久遠実成の釈尊の事を言います。
 そして久遠実成の釈尊とは、如来寿量品で述べられている様に、ある時には諸仏として現れ、またある時には衆生として現れますが、これらは常に同時進行で起きているという事なのです。端的に言えば私達一人ひとりの心の奥底にある心の実態とは、そういった奥底に本心があり、それは九識論でいう「九識心王真如の都」と呼ばれる心でもあるのです。

 この事について、私が理解している範疇で、私自身の言葉で言えば、一人ひとりの心は独立して存在している様に見えますが、実は同質の心の上に成り立っている一人ひとりであり、それはあたかも同じ根っこを持ちながら、土の上には別々に生えている姿をしている様な存在だという事です。そしてこの世界の全ての出来事は同じ根っこである「久遠実成の釈尊=九識心王真如の都という心の本体」のもとで、予定調和の様になりたっているのではないかと言う事です。

 また一念三千では三世間(五陰世間・衆生世間・国土世間)という事についても示していますが、この事についても考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 一人ですべてが変わるのであれば、あえて衆生世間(社会)と国土世間(環境)を五陰世間(個人)と合わせて一念三千で示す必要の無くなると思うのです。ここであえて三世間として分けて考えていると言う事は、五陰世間(個人の心の表面的な動き)と他の世間(衆生・国土)は相互に影響を与えるという事はありますが、まったく同一の動きや展開にはならないという事を、実は指し示しているのでは無いか。私はその様に思うのです。

 そうでれば「一人が変われば全てが変わる」という事も、時として有りうる事かもしれませんし、場合によっては「全く自分の想いに反した環境」という状況も当然発生しうる事ではないかと思います。ただここで「自分の想い」というのは、単に表層的な自我の一部の働きであり、人の人生で起こる事というのは、実は心の奥底にある心の本体の「予定調和」としての働きの上で成り立っているのではないかという事ではないでしょうか。

 以上、私が考える事を述べてみましたが、私自身、理屈っぽい事である事、また説明が足りない部分もあり、これだけを読んで理解していただく事は難しいかもしれません。

 しかしここで私が述べたい事とは、単純に個人の思い込みとか、強い祈りと言われるものだけで、周囲の環境が、さも自分の思う通りに変わるという事ではないであろうし、社会の動きやそれに伴う周囲の環境の変化とは、単に個人の範疇のみで動くものではなく、常に同じ時代を生きる人達の想いと、その人達が住んでいる環境との間で相互連動しながら、様々な姿を現わすものであると、私は考えているのです。

 あともう一つ。これはとても重要だと思う事なのですが、仏教とは「内道」と言い、自分の心の内側を観じながら、人生への理解を深め、自己への洞察を深める事で、自分自身という存在を理解するための教えであると思うのです。そうであれば周囲の社会状況などの環境に対する働き掛けも大事ではありますが、その社会状況や環境から自分がどの様に影響を受ける存在であるのか。そしてそこに生きる自分の人生にどの様な意味や目的があるのかについても、考えていかなければならないのではありませんか?

 こういう視点を持つ事が、今の時代にはとても大事だと、私は考えているのです。


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