何週間か前のことだが、ライドの帰途中にタイヤがパンクし、道路わきの測道に入り、チューブラタイヤの交換をしていると、神社の鳥居が目に付いた。導かれるように鳥居をくぐっていくと・・
庚申塔と5体の石仏が鎮座していた。
不思議なオーラを放っているようで・・・ そのオーラに牽き付けられたのか?
石の庚申塔ってあちこちで目にするが、一体 何を目的としてててられたのだろう?
この際だから調べてみると・・
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。
庚申塔とは、庚申信仰に基づき建立された石塔である。庚申(こうしん)は、十干十二支の“かのえさる”にあたる。十干は、木(甲:きのえ、乙:きのと)、火(丙:ひのえ、丁:ひのと)、土(戊:つちのえ、己:つちのと)、金(庚:かのえ、辛:かのと)、水(壬:みずのえ、癸:みずのと)である。これと、十二支(子,丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥)とを組み合わせて、暦が作られた。初日を甲子とすると、2日目は乙丑となり、 60日で一巡し、61日目は再び甲子となる。すなわち、庚申の日は60日ごとに巡ってくる。これを年に当てはめると、60 年に一度庚申の年がくる。
庚申信仰は、中国の民間信仰である道教に発するといわれている。道教では、人間が本来の寿命(一説では、125歳:現代医学でも125 歳と言われているのが、興味深い)を全うできないのは、人間の体内に住んでいる“三尸”(さんし)という虫のためであるとする。三尸は、庚申の夜に、人が寝ている間に体内を抜け出し、天に昇り天帝にその人の罪過を報告する。天帝は、その罪過を判断し、その人の寿命を短くする。したがって、少しでも長生きするためには、この三尸を天に昇らせなければよい。そこで、庚申の夜は眠らずに過ごそうというのが、守庚申ないし庚申待という行事である。
この行事は、平安時代に宮中で行われ初め、室町時代には民間でも行われるようになった。このころから次第に仏教的色彩が強いものになった。江戸時代には、主尊として青面金剛(しょうめんこんごう)が誕生し、石塔も多く造られた。また、この信仰に神道も加わり、猿田彦が主尊として現れた。明治時代もこの信仰は大きく衰えることはなかった。昭和とくに戦後は、衰退したが、現在も庚申信仰は細々だが続いている。
庚申塔は、主に江戸時代以降に庚申講によって建てられることが多かった。一定期間(3年、5年、13年など)守庚申を続ければ、所願が成就すると信じられていた。これを無事終了したことを記念して、庚申塔が造られた。また、逆修、二世安楽、諸願成就などが造立の目的として記述されているものもある。
庚申塔には、建立年月日、主尊、種子、主銘文、施主などが刻まれている。その地方、その時代の信仰の様子などが知られる貴重な情報源の一つであるといえる。
庚申様は農業の神様としても信仰されており,庚申講では農作業の順調や豊作(ほうさく)をみんなで祈願(きがん)しました。
庚申塔の石形や彫られる神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。 同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、猿田彦神は道祖神とも信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰とも結びつくこととなった。さらに仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。
庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。これは道祖神など他の路傍の石仏にはあまりみられない機能であり、庚申塔の特色とされている。
庚申塔は全国的な分布が確認されているが、地域によって建立数に差が見られる。特に旧相模国を中心とした地域では数多くの庚申塔が建立された。なお相模国には日本ではじめて三猿が彫られた庚申塔(茅ヶ崎市輪光寺、市重要文化財)や青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔などが残っている。
庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。当初は三猿像や青面金剛像を彫り付けたものが大多数であったが、しだいに「庚申塔」あるいは「庚申尊天」と文字のみ彫り付ける形式が増加する。
明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を勧めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。
現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申尊天」とかかれた石柱を全国で見ることができる。
なるほど。(ウィキペディア他・・参照)
5対の石造。1番右が地蔵菩薩坐像。赤い帽子とよだれ掛け?をかけている。稚児の供養のために建てられたのだろうか?
その左、如意輪観音像。如意輪観音像は十九夜講の主尊として建てられることが多い様だ。その左、中央の像も如意輪観音像。長い年月を経て、顔や上体の1部は崩れ落ちてしまっている。その左も如意輪観音像。1番左が馬頭観音像 。
右から2番目の如意輪観音像。日本では「如意輪観音菩薩」、「如意輪観世音菩薩」、「大梵深遠観音」などさまざまな呼び方があるが、重要文化財等の指定名称は「如意輪観音」となっている。また「救世菩薩」とも呼ばれる。
如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。
如意輪観音像は、原則として全て坐像または半跏像で、立像はまず見かけない。片膝を立てて座る六臂の像が多い。
小さい頃、住んでいた近くの寺にこの観音様が在って、右手で頬を押さえていることから、「歯が痛むときお参りすれば代わって受けてくださる」等と聞いたものだから、歯が痛いときお祈りしようかと・・ 遠い記憶にある
日光市の如意輪観音像の説明文にもあったが、この観音様を主尊にするのは十九夜講という女性が集まる女人講だ。主に9や19のつく日に女の人が集まって,灯明(とうみょう:ろうそく)や線香をあげ,十九夜念仏(ねんぶつ)を唱えて,お産が軽くすむように祈願(きがん)した。十九夜様は女性のための神さまとして,おもに安産を祈願するなど,女性からの信仰を集めていた。
中央の像の画像はなくて、左の2体
馬頭観音像。下の台座に馬頭の文字が読み取れる。馬頭観音は,庶民の間で馬の神様として信仰されている。
かつて,馬は人を助けて農作業をしたり,荷物を運んだりと人々の生活の中でかくことのできない存在だった。そのため,家族と同じ屋根の下で暮らし,家族の一員のように大切に飼われていた。馬頭観音の石碑は,そのように大切にされていた馬の健康を祈願したり,亡くなった馬を供養(くよう)するために建てられた。
しかし、手に斧や剣(弓?)、数珠などを持っている。表情は忿怒相であり、三面六臂である。
台座に 寛政 の文字が明瞭に見とれる。年号は土に潜っていて不明。
寛政(かんせい)は、日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1800年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。
-歴史(世界)-
フランス革命(1789)
ワシントンが初代アメリカ大統領に(1789)
ナポレオンのイタリア遠征(1796)とエジプト遠征(1798)
210年前の刻印がまだのこっているとはねえ
祠。右が石製、左が近年のものと思われるまだ新しい木製。手を合わせてきました。
近く、御拝殿が建立されるようです。
狛犬。狛犬(こまいぬ、中国語:石獅子、英語:imperial guardian lion)とは、犬に似た想像上の獣の像である。神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で置かれている。
古代インドで、仏像の両脇にライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。また、古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされる。
日本には仏教とともに中国から朝鮮半島を経て入ってきたために、高麗(こま)犬という字が当てられ、のちに狛犬に転じたと言われている。
まだ新しい石の鳥居。八坂神社ということだった。JR宇都宮駅近くにも八坂神社はある。京都が本尊だろう。八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町にある神社。
かつての社名から祇園さんの愛称で呼ばれる。八坂神社を総本社とし、素戔嗚尊(スサノオ)を祭神とする神社が、日本全国に約2300社あるとされる。
神社の裏手の細い道を梅林を抜けて入っていくと、平地林の中に先祖代代の墓地が点在していた。南無・・
庚申塔と5体の石仏が鎮座していた。
不思議なオーラを放っているようで・・・ そのオーラに牽き付けられたのか?
石の庚申塔ってあちこちで目にするが、一体 何を目的としてててられたのだろう?
この際だから調べてみると・・
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。
庚申塔とは、庚申信仰に基づき建立された石塔である。庚申(こうしん)は、十干十二支の“かのえさる”にあたる。十干は、木(甲:きのえ、乙:きのと)、火(丙:ひのえ、丁:ひのと)、土(戊:つちのえ、己:つちのと)、金(庚:かのえ、辛:かのと)、水(壬:みずのえ、癸:みずのと)である。これと、十二支(子,丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥)とを組み合わせて、暦が作られた。初日を甲子とすると、2日目は乙丑となり、 60日で一巡し、61日目は再び甲子となる。すなわち、庚申の日は60日ごとに巡ってくる。これを年に当てはめると、60 年に一度庚申の年がくる。
庚申信仰は、中国の民間信仰である道教に発するといわれている。道教では、人間が本来の寿命(一説では、125歳:現代医学でも125 歳と言われているのが、興味深い)を全うできないのは、人間の体内に住んでいる“三尸”(さんし)という虫のためであるとする。三尸は、庚申の夜に、人が寝ている間に体内を抜け出し、天に昇り天帝にその人の罪過を報告する。天帝は、その罪過を判断し、その人の寿命を短くする。したがって、少しでも長生きするためには、この三尸を天に昇らせなければよい。そこで、庚申の夜は眠らずに過ごそうというのが、守庚申ないし庚申待という行事である。
この行事は、平安時代に宮中で行われ初め、室町時代には民間でも行われるようになった。このころから次第に仏教的色彩が強いものになった。江戸時代には、主尊として青面金剛(しょうめんこんごう)が誕生し、石塔も多く造られた。また、この信仰に神道も加わり、猿田彦が主尊として現れた。明治時代もこの信仰は大きく衰えることはなかった。昭和とくに戦後は、衰退したが、現在も庚申信仰は細々だが続いている。
庚申塔は、主に江戸時代以降に庚申講によって建てられることが多かった。一定期間(3年、5年、13年など)守庚申を続ければ、所願が成就すると信じられていた。これを無事終了したことを記念して、庚申塔が造られた。また、逆修、二世安楽、諸願成就などが造立の目的として記述されているものもある。
庚申塔には、建立年月日、主尊、種子、主銘文、施主などが刻まれている。その地方、その時代の信仰の様子などが知られる貴重な情報源の一つであるといえる。
庚申様は農業の神様としても信仰されており,庚申講では農作業の順調や豊作(ほうさく)をみんなで祈願(きがん)しました。
庚申塔の石形や彫られる神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。 同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、猿田彦神は道祖神とも信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰とも結びつくこととなった。さらに仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。
庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。これは道祖神など他の路傍の石仏にはあまりみられない機能であり、庚申塔の特色とされている。
庚申塔は全国的な分布が確認されているが、地域によって建立数に差が見られる。特に旧相模国を中心とした地域では数多くの庚申塔が建立された。なお相模国には日本ではじめて三猿が彫られた庚申塔(茅ヶ崎市輪光寺、市重要文化財)や青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔などが残っている。
庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。当初は三猿像や青面金剛像を彫り付けたものが大多数であったが、しだいに「庚申塔」あるいは「庚申尊天」と文字のみ彫り付ける形式が増加する。
明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を勧めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。
現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申尊天」とかかれた石柱を全国で見ることができる。
なるほど。(ウィキペディア他・・参照)
5対の石造。1番右が地蔵菩薩坐像。赤い帽子とよだれ掛け?をかけている。稚児の供養のために建てられたのだろうか?
その左、如意輪観音像。如意輪観音像は十九夜講の主尊として建てられることが多い様だ。その左、中央の像も如意輪観音像。長い年月を経て、顔や上体の1部は崩れ落ちてしまっている。その左も如意輪観音像。1番左が馬頭観音像 。
右から2番目の如意輪観音像。日本では「如意輪観音菩薩」、「如意輪観世音菩薩」、「大梵深遠観音」などさまざまな呼び方があるが、重要文化財等の指定名称は「如意輪観音」となっている。また「救世菩薩」とも呼ばれる。
如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。
如意輪観音像は、原則として全て坐像または半跏像で、立像はまず見かけない。片膝を立てて座る六臂の像が多い。
小さい頃、住んでいた近くの寺にこの観音様が在って、右手で頬を押さえていることから、「歯が痛むときお参りすれば代わって受けてくださる」等と聞いたものだから、歯が痛いときお祈りしようかと・・ 遠い記憶にある
日光市の如意輪観音像の説明文にもあったが、この観音様を主尊にするのは十九夜講という女性が集まる女人講だ。主に9や19のつく日に女の人が集まって,灯明(とうみょう:ろうそく)や線香をあげ,十九夜念仏(ねんぶつ)を唱えて,お産が軽くすむように祈願(きがん)した。十九夜様は女性のための神さまとして,おもに安産を祈願するなど,女性からの信仰を集めていた。
中央の像の画像はなくて、左の2体
馬頭観音像。下の台座に馬頭の文字が読み取れる。馬頭観音は,庶民の間で馬の神様として信仰されている。
かつて,馬は人を助けて農作業をしたり,荷物を運んだりと人々の生活の中でかくことのできない存在だった。そのため,家族と同じ屋根の下で暮らし,家族の一員のように大切に飼われていた。馬頭観音の石碑は,そのように大切にされていた馬の健康を祈願したり,亡くなった馬を供養(くよう)するために建てられた。
しかし、手に斧や剣(弓?)、数珠などを持っている。表情は忿怒相であり、三面六臂である。
台座に 寛政 の文字が明瞭に見とれる。年号は土に潜っていて不明。
寛政(かんせい)は、日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1800年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。
-歴史(世界)-
フランス革命(1789)
ワシントンが初代アメリカ大統領に(1789)
ナポレオンのイタリア遠征(1796)とエジプト遠征(1798)
210年前の刻印がまだのこっているとはねえ
祠。右が石製、左が近年のものと思われるまだ新しい木製。手を合わせてきました。
近く、御拝殿が建立されるようです。
狛犬。狛犬(こまいぬ、中国語:石獅子、英語:imperial guardian lion)とは、犬に似た想像上の獣の像である。神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で置かれている。
古代インドで、仏像の両脇にライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。また、古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされる。
日本には仏教とともに中国から朝鮮半島を経て入ってきたために、高麗(こま)犬という字が当てられ、のちに狛犬に転じたと言われている。
まだ新しい石の鳥居。八坂神社ということだった。JR宇都宮駅近くにも八坂神社はある。京都が本尊だろう。八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町にある神社。
かつての社名から祇園さんの愛称で呼ばれる。八坂神社を総本社とし、素戔嗚尊(スサノオ)を祭神とする神社が、日本全国に約2300社あるとされる。
神社の裏手の細い道を梅林を抜けて入っていくと、平地林の中に先祖代代の墓地が点在していた。南無・・
ところで、前回のライドは不参加でしたが次回(8/15)は、在り来たりの理由を付けて欠席せず是非とも参加願います。思い出づくり、よろしくお願い致します。
仏門宗教にはそう興味はないんだよん