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趣味の写真をちょこちょこと

三田市の波豆川にコスモスを観に行ってきました

2024年10月19日 | 日記

コスモス(学名:Cosmos)は、キク科コスモス属の総称。また、種としてのオオハルシャギク Cosmos bipinnatus Cav. を指す場合もある。アキザクラ(秋桜)とも言う。

一年生植物の草本。茎は高さ2 - 3mになり、よく枝を出す。葉は対生で二回羽状複葉。細かく裂け、小葉はほぼ糸状になる。頭花は径6 - 10cm、周囲の舌状花は白から淡紅色、あるいは濃紅色。

中央の筒状花は黄色。葯は黄褐色。通常は舌状花は8個。開花期は秋で、短日植物の代表としても知られる。

 

秋に桃色・白・赤などの花を咲かせる。花は本来一重咲きだが、舌状花が丸まったものや、八重咲きなどの品種が作り出されている。

本来は短日植物だが、6月から咲く早生品種もある。

熱帯アメリカ原産。1789年、メキシコからスペインのマドリード王立植物園に送られ、1791年にアントニオ・ホセ・カヴァニレスによってCosmosと名づけられた。

日本には1879年(明治12年)に渡来した。これは美術学校の教師ラグザーがイタリアから持ち込んだものである。秋の季語としても用いられる。

観賞用に栽培される。 日当たりと水はけが良ければ、やせた土地でもよく生育する。

景観植物としての利用例が多く、河原や休耕田、スキー場などに植えられたコスモスの花畑が観光資源として活用されている。

ただし、河川敷の様な野外へ外来種を植栽するのは在来の自然植生の攪乱(かくらん)であり、一種の自然破壊であるとの批判がある。

観賞用のほか食用品種(食用コスモス)もある。

 

 

 

 

 


2024.10.17 大阪府を流れる「淀川を散歩してきました」

2024年10月19日 | 日記

淀川(よどがわ)は、大阪湾に注ぐ日本の一級河川。

滋賀県、京都府および大阪府を流れる淀川水系の本流である。琵琶湖から流れ出る唯一の河川である瀬田川(せたがわ)が宇治川(うじがわ)、淀川と名前を変える。

流路延長75.1 km、流域面積8,240 km2。なお、先述の流路延長は琵琶湖南端よりの延長であり、河口から最も遠い地点は滋賀県・福井県の分水嶺である栃ノ木峠であり、淀川の源の石碑が設置されている。

敦賀駅より北に位置するこの場所は琵琶湖へ流入する河川・高時川の水源地であり、そこからの河口までの直線距離は約130 km、流路延長に換算すると約170 kmとなる。

瀬戸内海に流入する河川の中で流域面積が最も広く、流域人口は西日本で最も多い。

また琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支川数は965本で日本一多い。

第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。大津市で琵琶湖から流れ出る。ここでは瀬田川と呼ばれる。

京都府に入る辺りで宇治川と名を変え、さらに京都府と大阪府の境界付近、大山崎町で桂川・木津川と合流する。

この合流地点より下流が狭義での淀川となる。その後も大阪平野をおおむね南西に流れ、大阪市で大阪湾に注ぐ。

都島区付近で旧淀川と分流し、以降の本流を新淀川と称する場合もある。旧淀川は大川・堂島川・安治川と名前を変えて大阪湾に注ぐ。

なお、河川法上では琵琶湖が淀川の水源としている。したがって、琵琶湖より流出する瀬田川・宇治川は法律上では淀川本流である。

また、琵琶湖に注ぐ全ての河川も、水系では淀川水系として扱われる。さらに、派川(分流)である神崎川に合流する安威川・猪名川などの河川も淀川水系として包括される。

江戸時代までは大和川も淀川に合流していたが[注釈 2]、付け替えによって本流が分離され、現在は独立した水系として扱われている。

ただし、大和川の旧本流である長瀬川、および平野川が現在でも大和川から分流し、第二寝屋川・寝屋川を経て旧淀川に合流している。

大阪市域は海が近いため地下水には塩気があり、江戸時代には淀川の水が飲料水として使われた。

2001年時点では、水環境の研究者の目線で言えば大阪の水は京都の水と同じくまずい水の最右翼に入るとされているが、天明年間など江戸時代には水は京か大坂かともてはやされていた。

「瀬田川」は瀬田、「宇治川」は宇治、「淀川」は巨椋池の出口にある淀(川が緩んでできた淀みを意味)など、沿岸の地名に由来する。

 


2024.10.10 六甲山系摩耶山天上寺に「アサギマダラ」を観に行ってきました

2024年10月19日 | 日記

アサギマダラ(浅葱斑、学名:Parantica sita)は、チョウ目タテハチョウ科マダラチョウ亜科に分類されるチョウの1種。翅の模様が鮮やかな大型のチョウで、長距離を移動する。

成虫の前翅長は5 - 6 cmほど。翅の内側が白っぽく、黒い翅脈が走る。この白っぽい部分は厳密には半透明の水色で、鱗粉が少ない。和名にある「浅葱(あさぎ)」とは青緑色の古称で、この部分の色に由来する。翅の外側は前翅は黒、後翅は褐色で、ここにも半透明水色の斑点が並ぶ。

オスとメスの区別はつけにくいが、オスは腹部先端にフェロモンを分泌するヘアペンシルという器官を持つ。また翅を閉じたときに、尾に当たる部分に濃い褐色斑があるものがオスである。性票であり、メスにはない。

忉利天上寺(とうりてんじょうじ)は、兵庫県神戸市灘区摩耶山町にある摩耶山真言宗の大本山の寺院。山号は佛母摩耶山。本尊は十一面観音菩薩と仏母摩耶夫人尊。

釈迦の生母である摩耶夫人を本尊とする日本唯一の寺である。通称は天上寺という。新西国三十三箇所第22番札所。

忉利天上寺は大化2年(646年)に孝徳天皇の勅願により、インドの伝説的な高僧法道仙人が開創したと伝わる。

後に空海(弘法大師)が渡唐した際、梁の武帝自作の摩耶夫人尊像を持ち帰り、同寺に奉安したことから、この山を「摩耶山」と呼ぶようになったとされる。

寺号は摩耶夫人が転生した忉利天に因むものである。鎌倉時代末期の摩耶山合戦(幕府軍対赤松氏)で知られる摩耶山城をこの寺とする説がある。

最盛期には多くの塔頭、僧坊を抱えており、最も栄えた頃は3,000人の僧を擁する摂津地方第一の大寺だったと伝わる。

宗派を越え、皇族・武将なども含め、広く信仰され、花山・正親町両天皇の御願所でもあった。

1976年(昭和51年)1月30日未明、賽銭泥棒による放火のため、仁王門や一部の塔頭・庫裏を除いて全焼した。

現在は北方約1 kmにある摩耶別山(天上寺創生の地とされる)に場所を移して再建された。

旧境内は摩耶山歴史公園として整備されており、旧伽藍の解説板などが整備されているほか、焼け残った仁王門も残されており、石垣や石段なども往時を偲ばせる。

ただ、仁王門以外の建物(庫裏など)は整備されておらず、朽ちかけている。

2020年(令和2年)4月3日高野山真言宗から独立し、新しい包括宗教法人として摩耶山真言宗を設立し、その総本山となる。

江戸時代には将軍徳川家光により摂津国の鎮護寺(護国寺)に選定され、紀州徳川家が将軍家の代参の役をつとめた。

このため天上寺の紋は、天皇家より賜った五七の桐紋と徳川家より賜った三つ葉葵紋を合わせた二種紋となっている。

アサギマダラの成虫は長年のマーキング調査で、秋に日本本土から南西諸島・台湾への渡り個体が多く発見され、

または少数だが初夏から夏にその逆のコースで北上している個体が発見されている。

日本本土の太平洋沿岸の暖地や中四国・九州では幼虫越冬するので、春から初夏に本州で観察される個体の多くは本土で羽化した個体と推測される。

秋の南下では直線距離1,500 km以上移動した個体や、1日あたり200 km以上の距離を移動した個体も確認されている。

移動の研究は、捕獲した成虫の翅の半透明部分に捕獲場所・年月日・連絡先などをマジックインキで記入(マーキング)、放蝶するという方法で個体識別を行われている。

このマーキングされた個体が再び捕獲された場所・日時によって、何日で何 km移動したか、あるいは同所で捕獲した場合何日そこに居たかが分かる。

調査のための『アサギマダラネット』のインターネットによる電子ネットワークがあり、その日のうちに移動情報が確認できることもある。

調査のための捕獲手段として、白いタオルの一方をつかんでぐるぐる回すとアサギマダラが寄ってくることが知られる。

利き手で網を持ち逆の手でタオルを回すと捕獲しやすい。

研究者達によって、夏に日本本土で発生したアサギマダラのうち、多くの個体が秋になると南西諸島や台湾まで南下することが判明したものの、

集団越冬の場所や、大量に死んでいる場所も見つかっていない。

南西諸島で繁殖、もしくは本土温暖地で幼虫越冬した個体は春の羽化後にその多くが、次の本土冷涼地での繁殖のために北上する傾向にあることが明かになった。

移動の具体的な事例として、2009年9月下旬に岐阜県下呂市で放蝶された個体が、10月12日に200km離れた兵庫県宝塚市で捕獲された。

2011年8月19日に「道南虫の会」が北海道函館市近郊の山から放蝶した「アサギマダラ」が、

2011年10月24日に山口県下関市の市立公園・リフレッシュパーク豊浦のバタフライガーデン「蝶の宿」に飛来し捕獲された。

2011年10月10日に和歌山県から放たれたマーキングしたアサギマダラが、83日後の12月31日に約2,500 km離れた香港で捕獲された。

途中高知県でも捕獲されていて、世界第二位の長距離の移動が確認された。