20世紀の古典 宮沢賢治
大人の幼児性を映す鏡
「山猫」なる不思議な存在から、いきなり、「おかしなはがき」を
もらった小学5年生は胸を躍らせるかもしれない。
宮沢賢治はきわめつけの童話作家だと、人は言う。
童心を失わない子供だけが、イーハトーブに入っていけると。
でも、素直な読者ではないのだろうか。
私は、宮沢賢治が、忘れかけた童心を取り戻させてくれる
童話作家だから、
「古典」の名に値するのだとはーというふうには思わない。
内輪のもめごとに決着がつかないと、
つい部外者も評価裁定をゆだねる依存心。
だれがいちばんえらいかで平和な世界に不和を
もちこんでしまう競争原理。
だれがいちばんえらいかに決着をつけたい、どんぐりに向かって
「いちばんめちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、
いちばんえらい」
などという分かったような、分からないような論理で
相手を煙に巻く話術。
どれも、これも子供っぽいといえば、子供っぽいが、
要するに大人になっても、抜けない幼児性そのものだ。
童話が古典であるかどうか、おとなになってから、
もう1度それを人生の鏡として再利用できるかどうかに
かかっている。
この年になって宮沢賢治を読むたび、憂鬱になる。
人間ばかりか、動物やどんぐりまでもが
悩みの種だ。
(朝日新聞 1998年 5月15日 学芸 ニュース時代を歩く)
宮沢賢治の作品といえば、「銀河鉄道の夜」が
思い出される。
ジョバンニとカムパネルラ
物語はというと、あまり良く覚えていないのだが、
ファンタジーの世界観だったことが思い出される。
ノリの6月の教育実習
担当は、小学2年生の児童を見ることになった。
小学2年生というと、
幼児の面も持ち合わせて、児童の面も持ち合わせているだろう。
まだ、少年の面は持ち合わせてないのだろうが・・・
教師の言葉で嫌いな言葉が、
「もう何年生だろうに。」「もう、○○でしょうに。」
自分が、世間一般の名称見たくひとくくりにされて
しまって、とても嫌だった。
自分は、絶対そんな注意の仕方はしないようにしたい。
そして、2年生の子供に負けないくらい、
元気と幼児性をもってぶつかりたい!!
大人なんだからとか、大学生だからとか
ホントは、どうでもよくて、
むちゃくちゃでも、はちゃめちゃでも、
子供とふれあっていたい、そんな気持ちをいつまでも
もっていたい。
大人の幼児性を映す鏡
「山猫」なる不思議な存在から、いきなり、「おかしなはがき」を
もらった小学5年生は胸を躍らせるかもしれない。
宮沢賢治はきわめつけの童話作家だと、人は言う。
童心を失わない子供だけが、イーハトーブに入っていけると。
でも、素直な読者ではないのだろうか。
私は、宮沢賢治が、忘れかけた童心を取り戻させてくれる
童話作家だから、
「古典」の名に値するのだとはーというふうには思わない。
内輪のもめごとに決着がつかないと、
つい部外者も評価裁定をゆだねる依存心。
だれがいちばんえらいかで平和な世界に不和を
もちこんでしまう競争原理。
だれがいちばんえらいかに決着をつけたい、どんぐりに向かって
「いちばんめちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、
いちばんえらい」
などという分かったような、分からないような論理で
相手を煙に巻く話術。
どれも、これも子供っぽいといえば、子供っぽいが、
要するに大人になっても、抜けない幼児性そのものだ。
童話が古典であるかどうか、おとなになってから、
もう1度それを人生の鏡として再利用できるかどうかに
かかっている。
この年になって宮沢賢治を読むたび、憂鬱になる。
人間ばかりか、動物やどんぐりまでもが
悩みの種だ。
(朝日新聞 1998年 5月15日 学芸 ニュース時代を歩く)
宮沢賢治の作品といえば、「銀河鉄道の夜」が
思い出される。
ジョバンニとカムパネルラ
物語はというと、あまり良く覚えていないのだが、
ファンタジーの世界観だったことが思い出される。
ノリの6月の教育実習
担当は、小学2年生の児童を見ることになった。
小学2年生というと、
幼児の面も持ち合わせて、児童の面も持ち合わせているだろう。
まだ、少年の面は持ち合わせてないのだろうが・・・
教師の言葉で嫌いな言葉が、
「もう何年生だろうに。」「もう、○○でしょうに。」
自分が、世間一般の名称見たくひとくくりにされて
しまって、とても嫌だった。
自分は、絶対そんな注意の仕方はしないようにしたい。
そして、2年生の子供に負けないくらい、
元気と幼児性をもってぶつかりたい!!
大人なんだからとか、大学生だからとか
ホントは、どうでもよくて、
むちゃくちゃでも、はちゃめちゃでも、
子供とふれあっていたい、そんな気持ちをいつまでも
もっていたい。
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