木曜日担当のノリです
なぜ、学び、何を学ぶのか
ドラゴン桜公式副読本
「16歳の教科書」を最近読みました。
7人の特別講義として、
国語、数学(2)、英語、理科、社会、心理の面から
なぜ学び、何を学ぶのかということについて書かれています。
多くの人が、小学校、中学校、高校、大学あるいは専門学校
そして社会へ出て行くため、
次のステップアップの手段として、勉強をしてきたと思います。
でも、本当に学校の勉強って大事なのかって疑問に思ったことは
誰しもが1度くらいはあるのではないでしょうか。
ノリも中学2年の頃に、担任の先生の発案のもと
クラス全員、そして学年の先生方も1人1人、
何で学ぶのかということを考え、1つの冊子にしました。
今では、何を書いたか
その冊子を読み返してみなければわからないのですが、
夢のためと書いた気がします。
何でもそうですが、やらされるものと、自分から意欲的に取り組むものとでは
違いが出てくるのではないでしょうか。
小学校の頃、別にやりたいとは一言もいってないのですが、
母親のススメで学研の教材をとっていました。
色々レイアウトなど、理解しやいようには工夫されていたとは
思うのですが、これがまったく手につかない。
母親も別にやれとは言ってこないこともあり、
どんどんやらないものが積みあがっていくばかりでした。
しかし、ノリは学校の漢字や計算ドリルは好きなほうでした。
面倒ではあるものの、今日はここまでやろうとか
夏休み、冬休みなど、1日でどこまで出来るかなどと
やってみたものです。
今でも、覚えているのは、大晦日の日だけ夜更かしをしていても
いいので、紅白歌合戦を見ながら、
ずっと漢字ドリルをやっていたことを覚えています。
違いは何なんでしょう?
そう考えたときに、やってあるかどうか
見てくれる人がいるということなのかもしれません。
ドリルは宿題ということもあり、学校の先生が
チェックしていたこと、いつも授業のたびに必要だったということ
学研の通信教材は、机の本棚にしまってあるばかりで
自分のやる気のあるときくらいしか、手をつけないわりに
3日坊主とかで終わってしまうんです。
後は、先生のコメントのために1人勉強ノートとか
頑張ったりしました。ドリルやワークを提出してもコメントは書いて
もらえないのですが、自主学習ノート(中学のときは若葉ノートとも言いました)
には、その日の一言を書くと、先生がコメントをくれるので
やる気になったものです。
ノリは何だかんだ、今までそうやって
誰かに見られる、数字として出る、第3者の評価が嬉しくて
勉強に夢中になっていたのかもしれません。
大学生として、勉強している今
誰かに見られる、数字として出るということは
減りましたが、学ぶことは好きです。
教育といっても、様々な切り口があり、文献を読むといっても
理解するかしないかの程度であり、まだまだ自分の中に
噛み砕けるほど、解釈が出来るとは思っていません。
それでも、教育の勉強は面白いなと思っています。
学校で習うほかにも、社会の中に多くの雑学があります。
普段、私たちが気にも留めないところに、
様々な工夫をこらしてあるなど、学びはいたるところにあります。
生涯学習と言われる今日、つまらないと思うことでも
学びは確かにあり、自分の感性や価値観などを形成していくように
感じます。
最後に話は、16歳の教科書に戻りますが、
英語に関して話をしてくださった、大西先生が
こんなことを言っていたのが印象に残りました。
「自分」は最大のミステリー、解くことは出来ない
自分の心に宿った小さな違和感、小さな不本意、小さな不自然
それを放置しないこと。その問題意識の中にこそ、
大切な大切な「ほんとうの自分」が住んでいる
16歳を過ぎた大学生が読んでも、ためになる本です。
1度、手にとってなぜ学ぶのか、考えてみてはいかがでしょうか。
ノリもまだまだ自分の勉強する理由
考えてみるつもりです。
なぜ、学び、何を学ぶのか
ドラゴン桜公式副読本
「16歳の教科書」を最近読みました。
7人の特別講義として、
国語、数学(2)、英語、理科、社会、心理の面から
なぜ学び、何を学ぶのかということについて書かれています。
多くの人が、小学校、中学校、高校、大学あるいは専門学校
そして社会へ出て行くため、
次のステップアップの手段として、勉強をしてきたと思います。
でも、本当に学校の勉強って大事なのかって疑問に思ったことは
誰しもが1度くらいはあるのではないでしょうか。
ノリも中学2年の頃に、担任の先生の発案のもと
クラス全員、そして学年の先生方も1人1人、
何で学ぶのかということを考え、1つの冊子にしました。
今では、何を書いたか
その冊子を読み返してみなければわからないのですが、
夢のためと書いた気がします。
何でもそうですが、やらされるものと、自分から意欲的に取り組むものとでは
違いが出てくるのではないでしょうか。
小学校の頃、別にやりたいとは一言もいってないのですが、
母親のススメで学研の教材をとっていました。
色々レイアウトなど、理解しやいようには工夫されていたとは
思うのですが、これがまったく手につかない。
母親も別にやれとは言ってこないこともあり、
どんどんやらないものが積みあがっていくばかりでした。
しかし、ノリは学校の漢字や計算ドリルは好きなほうでした。
面倒ではあるものの、今日はここまでやろうとか
夏休み、冬休みなど、1日でどこまで出来るかなどと
やってみたものです。
今でも、覚えているのは、大晦日の日だけ夜更かしをしていても
いいので、紅白歌合戦を見ながら、
ずっと漢字ドリルをやっていたことを覚えています。
違いは何なんでしょう?
そう考えたときに、やってあるかどうか
見てくれる人がいるということなのかもしれません。
ドリルは宿題ということもあり、学校の先生が
チェックしていたこと、いつも授業のたびに必要だったということ
学研の通信教材は、机の本棚にしまってあるばかりで
自分のやる気のあるときくらいしか、手をつけないわりに
3日坊主とかで終わってしまうんです。
後は、先生のコメントのために1人勉強ノートとか
頑張ったりしました。ドリルやワークを提出してもコメントは書いて
もらえないのですが、自主学習ノート(中学のときは若葉ノートとも言いました)
には、その日の一言を書くと、先生がコメントをくれるので
やる気になったものです。
ノリは何だかんだ、今までそうやって
誰かに見られる、数字として出る、第3者の評価が嬉しくて
勉強に夢中になっていたのかもしれません。
大学生として、勉強している今
誰かに見られる、数字として出るということは
減りましたが、学ぶことは好きです。
教育といっても、様々な切り口があり、文献を読むといっても
理解するかしないかの程度であり、まだまだ自分の中に
噛み砕けるほど、解釈が出来るとは思っていません。
それでも、教育の勉強は面白いなと思っています。
学校で習うほかにも、社会の中に多くの雑学があります。
普段、私たちが気にも留めないところに、
様々な工夫をこらしてあるなど、学びはいたるところにあります。
生涯学習と言われる今日、つまらないと思うことでも
学びは確かにあり、自分の感性や価値観などを形成していくように
感じます。
最後に話は、16歳の教科書に戻りますが、
英語に関して話をしてくださった、大西先生が
こんなことを言っていたのが印象に残りました。
「自分」は最大のミステリー、解くことは出来ない
自分の心に宿った小さな違和感、小さな不本意、小さな不自然
それを放置しないこと。その問題意識の中にこそ、
大切な大切な「ほんとうの自分」が住んでいる
16歳を過ぎた大学生が読んでも、ためになる本です。
1度、手にとってなぜ学ぶのか、考えてみてはいかがでしょうか。
ノリもまだまだ自分の勉強する理由
考えてみるつもりです。
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