信汗不乱
オリックス 仰木彬 監督
父戦死し、母の力で甲子園
結果こそ優先こそ選手に公平
8歳の時でした。夕暮れ時に遊びから
帰りごはんを炊いていた母に、
「ただいま」といいました。
しかし黙ってくべるばかり。
いつもなら「何して遊んできたの」などの必ず返事をしてくれる
母の異様な雰囲気で、すぐに父の死を悟りました。
長男でしたので、工業高校に進学し地元の八幡製鉄所に
就職しようと考えていました。
ところが、県立東筑高校のOBたちが自宅に
来てくれて、甲子園を目指そうと誘ってくれたのです。
母も賛成してくれて、OBは学費の一部も出してくれました。
おかげであこがれの甲子園に出場することが出来、
その甲斐もあって、3球団からスカウトされました。
地元の西鉄に入団し、三原監督と出会うのでした。
遊んでいたばかりの私に、三原監督は、寺子屋教育をはじめるなど
小さいころ、父を亡くした私にとって、三原さんは時には
父親、時には先生でした。寺子屋教育は1年半ほど続きました。
現役を引退したあとは、コーチとして野球に携わり、
5人の監督に仕えました。
最も長く仕えていたのは、西本監督でした。
私は始終、尻のポケットに小さなノートとボールペンを
入れ、監督の話や自分が気づいていたことをメモしました。
コーチは常に監督の意図を理解していないといけませんから。
書き留めたノートは20冊ほど。「仰木マジック」と
言われますが、本質は「確立の野球」
結局は、結果という数字を最優先させることが、
選手を公平に見ることにつながるのです。
(朝日新聞 夕刊 1998年 2月28日付け)
一見、華やかな人生を送っている様に見えていても、
その裏で人知れず努力があるということを
改めて実感します。
今では、日本の国民的ヒーローと呼んでもいいのでは
ないでしょうか。
イチローをオリックス時代、その才能に気づき、開花させたのは
間違いなく、仰木監督の力と言っていいでしょう。
イチローがNHKの「プロフェッショナル」で
このようなことを言っていました。
茂木さんが、仰木さんと出会っていなかったらということに
対して
「仰木さんと出会うことが運命だった。」
一見して、人と人との巡りあいは偶然であるように思います。
しかし、一方で父を亡くした仰木監督が三原監督と出会い、
また監督時代にはイチローと出会うなど、
巡りあわせは必然的なものなのかもしれないと感じます。
幼い頃に感じた
いつもなら「何して遊んできたの」などの必ず返事をしてくれる
母の異様な雰囲気
どこかに母の悲しみを自分の中にしまって
頑張ってこれたのかな・・・・そんな風にも思います。
仰木さんの生き方そのものが、生んでくれた母が予想もしない
【マジック】だったのではないでしょうか。
オリックス 仰木彬 監督
父戦死し、母の力で甲子園
結果こそ優先こそ選手に公平
8歳の時でした。夕暮れ時に遊びから
帰りごはんを炊いていた母に、
「ただいま」といいました。
しかし黙ってくべるばかり。
いつもなら「何して遊んできたの」などの必ず返事をしてくれる
母の異様な雰囲気で、すぐに父の死を悟りました。
長男でしたので、工業高校に進学し地元の八幡製鉄所に
就職しようと考えていました。
ところが、県立東筑高校のOBたちが自宅に
来てくれて、甲子園を目指そうと誘ってくれたのです。
母も賛成してくれて、OBは学費の一部も出してくれました。
おかげであこがれの甲子園に出場することが出来、
その甲斐もあって、3球団からスカウトされました。
地元の西鉄に入団し、三原監督と出会うのでした。
遊んでいたばかりの私に、三原監督は、寺子屋教育をはじめるなど
小さいころ、父を亡くした私にとって、三原さんは時には
父親、時には先生でした。寺子屋教育は1年半ほど続きました。
現役を引退したあとは、コーチとして野球に携わり、
5人の監督に仕えました。
最も長く仕えていたのは、西本監督でした。
私は始終、尻のポケットに小さなノートとボールペンを
入れ、監督の話や自分が気づいていたことをメモしました。
コーチは常に監督の意図を理解していないといけませんから。
書き留めたノートは20冊ほど。「仰木マジック」と
言われますが、本質は「確立の野球」
結局は、結果という数字を最優先させることが、
選手を公平に見ることにつながるのです。
(朝日新聞 夕刊 1998年 2月28日付け)
一見、華やかな人生を送っている様に見えていても、
その裏で人知れず努力があるということを
改めて実感します。
今では、日本の国民的ヒーローと呼んでもいいのでは
ないでしょうか。
イチローをオリックス時代、その才能に気づき、開花させたのは
間違いなく、仰木監督の力と言っていいでしょう。
イチローがNHKの「プロフェッショナル」で
このようなことを言っていました。
茂木さんが、仰木さんと出会っていなかったらということに
対して
「仰木さんと出会うことが運命だった。」
一見して、人と人との巡りあいは偶然であるように思います。
しかし、一方で父を亡くした仰木監督が三原監督と出会い、
また監督時代にはイチローと出会うなど、
巡りあわせは必然的なものなのかもしれないと感じます。
幼い頃に感じた
いつもなら「何して遊んできたの」などの必ず返事をしてくれる
母の異様な雰囲気
どこかに母の悲しみを自分の中にしまって
頑張ってこれたのかな・・・・そんな風にも思います。
仰木さんの生き方そのものが、生んでくれた母が予想もしない
【マジック】だったのではないでしょうか。
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