「癒してほしい」 でも、どこ
重松清の「先生はすすめない本」
先生にも、バカボン精神を
最近 「癒し」の言葉なんてのが、ウケてる、らしい。
ほんとかよ。
いやぁ、まあ、それはほんとなんだろうけども・・・
どうも、「癒し」は、ウサン臭い。
もともと「癒す」は、痛みを取り除いたり、長い間欲しかったものを与えて
満足させたり、という意味だ。
でも、
「あなたは、どんな痛みがあるの?」
「きみは、なにが欲しいの?」
と尋ねられたら・・・・癒される前に(ここが肝心)
答えられる人って、意外と少ないんじゃないだろうか。
まずは、「痛み」のありかや、「欲しいもの」の正体を見定めること、
認めること
そこから、でしょう。
ギャグマンガの巨匠・赤塚不二夫さんの対談集
『これでいいのだ』は、「癒されたい」なんて、
これぽっちも思っていないひとたちの本音満載の1冊。
北野武、立川談志、松本人志、タモリ・・・・ゲストも
皆さん「癒し」とは無縁の、濃い人ばかりだが、
とにかく、ホストの赤塚さんがすごいのである。
ガンを告知され、酒とタバコを禁じられながらも、
呑む呑む、吸う吸う、対談中に居眠りをして、
バカボンのパパのコスプレで、町を歩いて
もしかしたら、それを「痛々しい」と評する人もいるかもしれない。
だが、赤塚さんの境地は、
常識・非常識、
生・死の枠組みを超えて、
『天才バカボン』の名言どおり、「これでいいのだ」
すべてを受け入れる、いわば「認め」の言葉である。
自分の痛みがあるーーーこれでいいのだ。
「欲しいもの」は、これなんだーーーこれでいいのだ。
そして、きみは、きみーーーーこれでいいのだ。
相田みつをさんの 「にんげんだもの」がありなら、
「これでいいのだ」なんてもっとありじゃん、とぼくは思う。
『岸和田少年愚連隊』でおなじみの、中場利一さんが両親をモデルに、
描いた青春恋愛純情ケンカ小説『えんちゃん』も、
(というか中場さんの小説はすべて)、
「これでいいのだ」精神にあふれている。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、すぐ殴る。
やばけりゃ逃げる。そして、もちろん愛は一途・・・・・。
コテコテの関西ギャグがちりばめられた中場さんの小説が、
下品さとも思わせばかりな湿っぽさとも無縁なのは、
主人公はもとより、脇役のセコイ連中1人1人にいたるまで、
たとえ嫌われながらも、決して否定されてはいないからじゃないか。
「ワレはこれでええんじゃ、文句あるんかいコラ」
なんていうふうに、作者と作者の描く世界が、
彼らをみんなまとめて、認めてくれているからじゃないだろうか。
もちろん、世間には、「これでいいのだ」と
言いたくても、言えないことのほうが多い。
オトナには立場とか、建前ってやつがあるから、
たとえば、学校という場は、その最たるものだろう。
だからこそ、いつか中場さんが描く教師モノの小説を読みたい。
『中場流・坊ちゃん』をぜひ、読んでみたい。
意外と「待ってました。」といちばん喜ぶのは、
きみたちの先生だったりしてね。
(朝日新聞 2000年3月25日付け 中高生のためのブックサーフィンより抜粋)
これで、いいのだ、なんて言ってくれること
意外と少ないのでは、ないだろうか。
自分の家に友だちを招いて、食事をすることがあった。
食事の準備や片付けをしている際に、何人かは、手伝うことありますか?
と聞いてくる。
でも、決まって、こう答えていた。
「今日は、お客さんだから、何にもしなくていいよ。
みんなとしゃべって、お話して楽しんでと。」
何かをして、くつろぐことで、「癒し」を得られるかもしれないが、
誰かをくつろがせてあげられる、ことも、自分にとっての「癒し」にもなる。
確かに、10年前、癒し系、癒し系キャラというのが、
流行っていた。
ゆとり教育が、はじまる前でもあった。
のほほんとすること、おっとりしていることが、
癒しにつながるとして、認められた。
今は、どうだろう?
自分を癒してくれる存在
また、自分が誰か、何かを癒してくれるほど、ゆとりはないように思う。
「癒し」より、お前はお前でいいんだよ、
みんなと一緒にならなくてもいいんだよ、と「認め」の言葉を
待っているかもしれない。
「これでいいのだ」
すべてを受け入れる、いわば「認め」の言葉である。
どんな選択、決断をしても、なるようになるのだ!!
今までの選択をしてきた結果が、今の自分なのだから。
「これでいいのだ」
社会に踏み出す、自分自身に贈りたい言葉でもある。
重松清の「先生はすすめない本」
先生にも、バカボン精神を
最近 「癒し」の言葉なんてのが、ウケてる、らしい。
ほんとかよ。
いやぁ、まあ、それはほんとなんだろうけども・・・
どうも、「癒し」は、ウサン臭い。
もともと「癒す」は、痛みを取り除いたり、長い間欲しかったものを与えて
満足させたり、という意味だ。
でも、
「あなたは、どんな痛みがあるの?」
「きみは、なにが欲しいの?」
と尋ねられたら・・・・癒される前に(ここが肝心)
答えられる人って、意外と少ないんじゃないだろうか。
まずは、「痛み」のありかや、「欲しいもの」の正体を見定めること、
認めること
そこから、でしょう。
ギャグマンガの巨匠・赤塚不二夫さんの対談集
『これでいいのだ』は、「癒されたい」なんて、
これぽっちも思っていないひとたちの本音満載の1冊。
北野武、立川談志、松本人志、タモリ・・・・ゲストも
皆さん「癒し」とは無縁の、濃い人ばかりだが、
とにかく、ホストの赤塚さんがすごいのである。
ガンを告知され、酒とタバコを禁じられながらも、
呑む呑む、吸う吸う、対談中に居眠りをして、
バカボンのパパのコスプレで、町を歩いて
もしかしたら、それを「痛々しい」と評する人もいるかもしれない。
だが、赤塚さんの境地は、
常識・非常識、
生・死の枠組みを超えて、
『天才バカボン』の名言どおり、「これでいいのだ」
すべてを受け入れる、いわば「認め」の言葉である。
自分の痛みがあるーーーこれでいいのだ。
「欲しいもの」は、これなんだーーーこれでいいのだ。
そして、きみは、きみーーーーこれでいいのだ。
相田みつをさんの 「にんげんだもの」がありなら、
「これでいいのだ」なんてもっとありじゃん、とぼくは思う。
『岸和田少年愚連隊』でおなじみの、中場利一さんが両親をモデルに、
描いた青春恋愛純情ケンカ小説『えんちゃん』も、
(というか中場さんの小説はすべて)、
「これでいいのだ」精神にあふれている。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、すぐ殴る。
やばけりゃ逃げる。そして、もちろん愛は一途・・・・・。
コテコテの関西ギャグがちりばめられた中場さんの小説が、
下品さとも思わせばかりな湿っぽさとも無縁なのは、
主人公はもとより、脇役のセコイ連中1人1人にいたるまで、
たとえ嫌われながらも、決して否定されてはいないからじゃないか。
「ワレはこれでええんじゃ、文句あるんかいコラ」
なんていうふうに、作者と作者の描く世界が、
彼らをみんなまとめて、認めてくれているからじゃないだろうか。
もちろん、世間には、「これでいいのだ」と
言いたくても、言えないことのほうが多い。
オトナには立場とか、建前ってやつがあるから、
たとえば、学校という場は、その最たるものだろう。
だからこそ、いつか中場さんが描く教師モノの小説を読みたい。
『中場流・坊ちゃん』をぜひ、読んでみたい。
意外と「待ってました。」といちばん喜ぶのは、
きみたちの先生だったりしてね。
(朝日新聞 2000年3月25日付け 中高生のためのブックサーフィンより抜粋)
これで、いいのだ、なんて言ってくれること
意外と少ないのでは、ないだろうか。
自分の家に友だちを招いて、食事をすることがあった。
食事の準備や片付けをしている際に、何人かは、手伝うことありますか?
と聞いてくる。
でも、決まって、こう答えていた。
「今日は、お客さんだから、何にもしなくていいよ。
みんなとしゃべって、お話して楽しんでと。」
何かをして、くつろぐことで、「癒し」を得られるかもしれないが、
誰かをくつろがせてあげられる、ことも、自分にとっての「癒し」にもなる。
確かに、10年前、癒し系、癒し系キャラというのが、
流行っていた。
ゆとり教育が、はじまる前でもあった。
のほほんとすること、おっとりしていることが、
癒しにつながるとして、認められた。
今は、どうだろう?
自分を癒してくれる存在
また、自分が誰か、何かを癒してくれるほど、ゆとりはないように思う。
「癒し」より、お前はお前でいいんだよ、
みんなと一緒にならなくてもいいんだよ、と「認め」の言葉を
待っているかもしれない。
「これでいいのだ」
すべてを受け入れる、いわば「認め」の言葉である。
どんな選択、決断をしても、なるようになるのだ!!
今までの選択をしてきた結果が、今の自分なのだから。
「これでいいのだ」
社会に踏み出す、自分自身に贈りたい言葉でもある。
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