空中楼閣―Talking Dream―

好きなものを徒然なるままに。

宙組「WEST SIDE STORY」(梅田芸術劇場)

2018-08-04 16:02:45 | 観劇(タカラヅカ)
名作の持つ、力。

舞台版を見るのは初めてなのです。(海外来日公演、四季含め)
映画版も見たのは遥か昔で(勿論ビデオで)、
じゃあ私にとってのWSSの印象はというと、専らフィギュアスケートなのだった。
特に、バンクーバーシーズンの鈴木明子ちゃんと、トリノシーズンのベルビン&アゴスト。
……すると馴染みのある曲はだいたい一幕で終わってしまうという。

恐らく、プレスギュルヴィック版のロミジュリが
多分にWSSから逆輸入(言い方変)しているところがあるんだけれど、
(冒頭「ヴェローナ」はWSSが無ければ存在していない場面だと思う)
「この話、ここまで『ロミジュリ』に忠実に展開してたんだ」と改めてびっくり。
ダンスパーティでの出会い、バルコニー、ささやかな結婚式、少年たちの悲劇。
そして「同じ」だからこそ、「同じではない」場面が突き刺さる。

ロミジュリだとラストに訪れる和解の大合唱。
悲劇に打ちのめされながらも手を取り合う人々。
でもWSSでは、その場面は、「Someday, Somewhere」という実現しない幻想シーン
としての形で現れるという、残酷さ。

許し合い手を取り合う未来なんて来るんだろうか。
ジュリエットとは違いマリアは自ら死なず、「今なら撃てる、憎いから」と銃を向ける。
(なんだかSMAPの「Triangle」を思い出してしまったのですよ。)
無邪気な少女で(手を汚していないから)それゆえ和解の希望だったマリアは、
一幕で身にまとっていた白いベールと対をなす黒いベールを被って舞台から去る。

でもその悲劇を招いたのは、(勿論社会の問題もあるんだけど)
彼ら自身だ、と思ってしまうのは、アニタに感情移入しすぎたから。

一番泣けたのが、二幕の、マリアにアニタが絆されちゃうところなんですね。
ナルドを奪われた絶望と憎悪よりも、
目の前のマリアを救ってやりたいという思いが勝ってしまった。
そのアニタの思いが痛いほど伝わって、それなのに、
それに突き動かされて敵地に赴いたアニタが受けた仕打ちがあまりにも理不尽で。
民族差別、人種差別、それに加えて性差別。
アニタがかけた呪詛は、正当なものにしか思えなくて。
(ラストも、マリア撃っちゃえばいいのに、特にJETSを、とわりとマジで思った)
JETSとシャークスは、対等じゃないもの。

勿論、主役カップルのトニーとマリアは、そんなものを乗り越えて愛し合おうとし、
だからこそこの物語は普遍性を持って感動を与えるんだけど、
トニーの悲劇に同情できないレベルで私の心を持って行った、ずんアニタの痛々しさよ。

突き放した言い方をすれば、
トニーは自分の罪の報いを受けただけだとも言えるし(ナルドの分)
それはナルドも同じで(リフの分)
そうするとリフは殺されただけ、
チノは殺してしまっただけ(彼が米国で正当な裁きを受けられるとは思えないのが辛い)、
そして一方的に魂を殺されたアニタ、と
悲劇が「非対称」であることの残酷さが引っかかるのです。

それでも。
アニタの呪詛を受けて絶望したトニーが、
誰かを傷つけに行くんじゃなくて、自分を殺せと叫ぶのが、すごく好き。
彼を愛したマリアは間違っていなかったと、そう思える。
トニーだけが、運命を変えることができた。
彼は、マリアやアニタが命懸けで救おうとするのに相応しい男だった。

真風さんって、持ち味がノーブルなんですよね。
ルックス的にはナルドが一番似合うんじゃないかと思ってたけど、
見た今となっては、彼はトニー以外あり得ない。
(ベルばらだと、アンドレもアランもできるだろうけど、フェルゼンのキャラだと思う)
(あ、ベルばら見たいって意味じゃないですからね念のため!!)

まどかちゃんマリアは、その「少女」らしさと歌唱力が存分に発揮されて、
彼女のために持ってきた演目なんじゃないかと思ってしまうぐらい。
ダンスパーティの白ドレスが本当に素敵だった!!
裾の広がり方が絶品(3階から見てました)。

愛ナルドとずんアニタが本当にお似合いでした。
ずんアニタ、何の違和感もなく美しい女性で、いや身長は高いんだけど(笑)
そのずんちゃんを包み込んでしまう愛ちゃんのスタイル!!

あっきーリフはひたすらカッコ良く、えびちゃんとのカップルが素敵でした。
リフはアニタを傷つけていないのでセーフ(爆)
りくチノも好き。

それにしてもWSSはやっぱりダンスのミュージカルで、
歌は全部名曲だけどどれもとんでもない難曲で、日本語詞で盛り上げるのが難しい曲ばかり。
そして体の線が出るジーパンは男役にとってハードルが高すぎる。
宙組さんよく頑張ったと思います。

見ごたえがありました。

ついつい比較してしまうのでちょっとだけ書く。
ロミオとジュリエットは持てる者の子ども同士なので、
「最後にはすべてを捨てて逃げる」という選択肢があって、
そしてそれが実現しなかった悲劇、だと思うんだけど、
トニーとマリアは持たざる者同士で、そもそも逃げる場所なんて無い、
というのが最大の違いかなあと思いました。
ついでに言うと、持てる者でも大人同士だと色んなしがらみがあって
「捨てて逃げる」ことはできない、というのが『アイーダ』の悲劇。

コメントを投稿