…と、森川久美「天の戴冠」の思い出など、つれづれ。
先日、リチャード3世の遺骨が発見された、というニュースが話題になっていましたが、
ようやく、この古典的名著を読むことができました。
「安楽椅子探偵」ならぬ「ベッド探偵」。
勤務中の負傷で入院中の名探偵(というか刑事)が、退屈しのぎに、英国史上のミステリー、
「リチャード3世は本当に幼い甥たちを暗殺して王位を得たのか?」という謎を追っていく物語。
シェイクスピアの戯曲ですっかり定着した、「悪王リチャード」のイメージを大きく覆した、と言われる作品です。
「鉈切り丸」の感想の際にも書きましたが、私は、シェイクスピア描くリチャードよりも前に、
森川久美のマンガ「天(そら)の戴冠」でリチャードに出会っています。
(あ、「ばら戦争」との出会いは、やまざき貴子の『マリー・ブランシュに伝えて』のほうが先です。
あれも名作だよなあ…何回読んでも泣いてしまう。)
「天の戴冠」は1976年の作品らしく(私が読んだのは発表から四半世紀を経た後なのですが)
『時の娘』の日本での発刊が1975年。(旧訳版は1953年刊行だそうです)
「天の戴冠」のリチャード像は、この『時の娘』を元ネタにしたものだ、とは聞いていたのですが、
「天の…」を読んでから14年、ようやく辿り着きました。
読みながらの感想は、「やっと再会できた」というものでした。
私のリチャード。
誠実で、忠実で、自分の運命に向き合って、一歩ずつ歩んでいこうとしていた、あのリチャードに。
「家族」を愛し、兄に焦がれ、良き「ナンバー2」たろうとしていたリチャードに。
あ、ミステリとしても面白いです。
グラント警部が作中で、一つ一つ「証拠」を積み重ね、
「リチャードは罪を犯していない」「彼は生前は愛されていた」という結論に達する、
その推理過程が、わくわくするほど刺激的。
もっともこれは、「リチャード=悪の権化」という先入観がある状態で読む方が、
きっともっと衝撃的だったんでしょうけれども。
これで読むと、リチャードの悲劇は、ボズワースの戦いで敗れ、
それによって勝者側から汚名を着せられたことですよね。
あの戦いで勝利していれば、全ては変わっていたかもしれない、と思わせられる。
森川版の救いの無さは、リチャードの最大の悲劇は、王位に就いたことにあるというところでしょう。
ボズワースの戦いの頃には、リチャードの心がもう半分以上死んでしまっているので、
戦死することである意味救われた、とさえ思ってしまう。
リチャードの思考は、その後の森川作品主人公の典型とも言えるパターンで、
「愛されたい:焦がれ続けるヒーロー」「許されたい:ヒロイン」の2者を求め続けながら
それを得られず、自らを罰するように破局へと進む。
この場合は、ヒーロー:兄エドワード、ヒロイン:妻アン。
切ないのは、エドワードが死ぬその瞬間まで、リチャードはエドワードからもアンからも
ちゃんと愛されて、満たされた日々を送っていたってところですね。
尊敬すべき兄の片腕として。愛する妻の良き夫として。
破局の糸口は、エドワードの急死と、自分に王位が転がり込んできたこと。
自問するリチャード。「自分は、兄に焦がれ、兄になり代わりたいと思っていたのではないか?」
それを否定できず、リチャードは「裏切り者の証」としての王冠を受ける。
追い打ちをかけるのは、妻・アンの死と、その死に際の言葉。
「私を殺すのはあなたとエドワード」
「(私もあなたも)二人とも、同じ人を愛しました」(アンはエドワードの元恋人)
「あなたはいつも私の中にエドワードを重ねていた」(アンとエドワードは外見が似ている)
よく考えたら、私の「愛に見せかけた代償行為萌え」って、この辺が原点かもしれない(笑)
まあ、「天の戴冠」は、あくまでもリチャード個人の内面に焦点を当てた作品なので、
ミステリーの『時の娘』とは作品スタンスが異なる。
敵対する側の戦略という点も含めてだと『時の娘』は、
結論がわかった状態で読んでも非常に刺激的で面白い作品でした。
リチャードがかわいそうすぎるので、シェイクスピアのピカレスク・ロマンの方が
後味悪くない気もするんですけどね。
先日、リチャード3世の遺骨が発見された、というニュースが話題になっていましたが、
ようやく、この古典的名著を読むことができました。
「安楽椅子探偵」ならぬ「ベッド探偵」。
勤務中の負傷で入院中の名探偵(というか刑事)が、退屈しのぎに、英国史上のミステリー、
「リチャード3世は本当に幼い甥たちを暗殺して王位を得たのか?」という謎を追っていく物語。
シェイクスピアの戯曲ですっかり定着した、「悪王リチャード」のイメージを大きく覆した、と言われる作品です。
「鉈切り丸」の感想の際にも書きましたが、私は、シェイクスピア描くリチャードよりも前に、
森川久美のマンガ「天(そら)の戴冠」でリチャードに出会っています。
(あ、「ばら戦争」との出会いは、やまざき貴子の『マリー・ブランシュに伝えて』のほうが先です。
あれも名作だよなあ…何回読んでも泣いてしまう。)
「天の戴冠」は1976年の作品らしく(私が読んだのは発表から四半世紀を経た後なのですが)
『時の娘』の日本での発刊が1975年。(旧訳版は1953年刊行だそうです)
「天の戴冠」のリチャード像は、この『時の娘』を元ネタにしたものだ、とは聞いていたのですが、
「天の…」を読んでから14年、ようやく辿り着きました。
読みながらの感想は、「やっと再会できた」というものでした。
私のリチャード。
誠実で、忠実で、自分の運命に向き合って、一歩ずつ歩んでいこうとしていた、あのリチャードに。
「家族」を愛し、兄に焦がれ、良き「ナンバー2」たろうとしていたリチャードに。
あ、ミステリとしても面白いです。
グラント警部が作中で、一つ一つ「証拠」を積み重ね、
「リチャードは罪を犯していない」「彼は生前は愛されていた」という結論に達する、
その推理過程が、わくわくするほど刺激的。
もっともこれは、「リチャード=悪の権化」という先入観がある状態で読む方が、
きっともっと衝撃的だったんでしょうけれども。
これで読むと、リチャードの悲劇は、ボズワースの戦いで敗れ、
それによって勝者側から汚名を着せられたことですよね。
あの戦いで勝利していれば、全ては変わっていたかもしれない、と思わせられる。
森川版の救いの無さは、リチャードの最大の悲劇は、王位に就いたことにあるというところでしょう。
ボズワースの戦いの頃には、リチャードの心がもう半分以上死んでしまっているので、
戦死することである意味救われた、とさえ思ってしまう。
リチャードの思考は、その後の森川作品主人公の典型とも言えるパターンで、
「愛されたい:焦がれ続けるヒーロー」「許されたい:ヒロイン」の2者を求め続けながら
それを得られず、自らを罰するように破局へと進む。
この場合は、ヒーロー:兄エドワード、ヒロイン:妻アン。
切ないのは、エドワードが死ぬその瞬間まで、リチャードはエドワードからもアンからも
ちゃんと愛されて、満たされた日々を送っていたってところですね。
尊敬すべき兄の片腕として。愛する妻の良き夫として。
破局の糸口は、エドワードの急死と、自分に王位が転がり込んできたこと。
自問するリチャード。「自分は、兄に焦がれ、兄になり代わりたいと思っていたのではないか?」
それを否定できず、リチャードは「裏切り者の証」としての王冠を受ける。
追い打ちをかけるのは、妻・アンの死と、その死に際の言葉。
「私を殺すのはあなたとエドワード」
「(私もあなたも)二人とも、同じ人を愛しました」(アンはエドワードの元恋人)
「あなたはいつも私の中にエドワードを重ねていた」(アンとエドワードは外見が似ている)
よく考えたら、私の「愛に見せかけた代償行為萌え」って、この辺が原点かもしれない(笑)
まあ、「天の戴冠」は、あくまでもリチャード個人の内面に焦点を当てた作品なので、
ミステリーの『時の娘』とは作品スタンスが異なる。
敵対する側の戦略という点も含めてだと『時の娘』は、
結論がわかった状態で読んでも非常に刺激的で面白い作品でした。
リチャードがかわいそうすぎるので、シェイクスピアのピカレスク・ロマンの方が
後味悪くない気もするんですけどね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます