空中楼閣―Talking Dream―

好きなものを徒然なるままに。

ル=グウィン女史を偲ぶ ゲド戦記語りなど

2018-02-03 10:45:21 | 読書
アーシュラ・K・ル=グウィン女史のご冥福をお祈りします。
『ゲド戦記』を読んだのは大学院生になってからなのですが、
あの作品は未だに私を導いてくれる、大切な大切な物語です。

当時、所属していた児童文学研究会の会誌に書いたものが出てきたので掲載します。

巻数カウントが古いままだったり、内容が「若いな〜」と苦笑したくなるものだったりしますが、
直さずにそのまま載せます。
あ、内容のネタバレしてますのでご注意を。

語り直される「ゲド戦記」
 ―アースシーのカウンター・ナラティヴ―


「ゲド戦記」シリーズを巻数に沿って読み進めてきた読者は、第4巻『帰還』に至って大きな戸惑いを感じることになる。
 実際、第3巻『さいはての島へ』が出版されてから『帰還』が書かれるまでには、実に20年近くの歳月が流れてしまっているのだが、それにしても、『帰還』で描かれるゲドやアースシーの世界は、それまで語られていたものと同じだとはなかなか思えない。
 大賢人にまでなった天才魔法使いゲドは魔力を失ってただの偏屈な老いた男となり、『さいはて…』でゲドとレバンネンによって救われたはずの世界には、様々な悪意が満ち満ちている。
 そこでゲドは、そして読者は、これまで構築してきた世界を「語り直す」作業を迫られるのだ。

 人は自分の生きる世界を物語によってとらえている。その物語は、その人の生きる社会の文化や歴史の枠組に大きく影響されたものである。だが、世界をとらえるための物語は一つではない。スポットライトの当て方を変えれば、世界は全く違う姿を見せるものなのだ。
 世界をとらえるために、ある一つの物語を選べば、それ以外の物語は見えなくなり、語られなくなる。特に、世界の中で力のある者の語る物語に対して、力の無い者・中心にいない者の物語は、なかなか表面には出てこない。前者はマスター・ナラティヴ(支配的な物語)と呼ばれ、後者はカウンター・ナラティヴ(対抗的な物語)と呼ばれる。
 「ゲド戦記」の1巻から3巻までに語られた物語(「ゲドの勲し」)は、いわばアースシー世界のマスター・ナラティヴである。魔法使いは世界の真理を知る偉大な存在であり、アーキペラゴの人々はカルカド人よりも世界のことをわかっている。世界には均衡が必要であり、全てのものには真の名があり、真の名はそれを呼ばれたものを縛る力がある。
 これに対して、『帰還』以降で語られるのは、マスター・ナラティヴでは決して語られないカウンター・ナラティヴだ。そこではゲドは主人公ではなく、一人の登場人物に過ぎない。物語を動かすのは、「ゲドの勲し」で語られた世界の外にいた人々だ。魔法使いにはなれない女であったり、魔法の力を持っていてもロークへ行って魔法使いになる道を選ばなかった男であったり、竜であったり、異民族であるカルカド人であったりする。
 そして、主に作者から視点を与えられているテナーは、かつてゲドと出会ったことで彼女が持っていた世界についての物語を変えなければならなかった人物であり、アーキペラゴとカルカドの双方の社会を知る人物であり、また、魔法を教わる機会を得ながら、自分自身の意思で、「普通の生活」(決して、英雄物語では語られることのない生活)を選んだ女性である。テナーを中心におくことで、どの物語も唯一絶対のものでなく、数限りなく存在する物語の中の一つに過ぎないのだ、という相対化がなされる。

 『外伝』の中の最後の物語「トンボ」の中で、ロークの長に「アイリアン!」と“真の名”を呼ばれたアイリアンは叫ぶ。
「私は、アイリアンであるだけではないわ!」
 ロークの人々を絶対的に縛っていたマスター・ナラティヴは、そのナラティヴの外からやって来た彼女にとっては一つの物語に過ぎなかったのである。
 そして『アースシーの風』において、世界を支配していたマスター・ナラティヴの枠は遂に取り払われ、アースシーは風通しの良い世界になる。そこには、無限の物語が存在可能で、同時に、人が自分自身で自分の生きる物語を選択せねばならない世界でもあるのだ。

コメントを投稿