空中楼閣―Talking Dream―

好きなものを徒然なるままに。

花組「ポーの一族」

2018-02-01 20:45:24 | 観劇(タカラヅカ)
タカラジェンヌって、バンパネラだ、と思った。

年の初め…というには2月になってようやく来た、本年初大劇場。
演目発表時から話題沸騰、超チケ難公演「ポーの一族」。

原作読んだのは学生時代なのでもう十年以上前。
細部はだいぶ忘れてしまったので、読み返したくて仕方ないけど持ってないんだよね。

ちなみに先にパロディ色々から入ってしまったので、
「だぁれが殺したクックロビン」(「小鳥の巣」)はまず何を置いても『パタリロ!』だし(笑)
「沈丁花 沈丁花 いたずらな小枝よ」(「メリーベルと銀のばら」)は
『笑う大天使』の和音さんだ。(「くまのプーさんの一家の物語だろーか」…)

確かマンガ文庫版だか愛蔵版だかの解説が我らが小池修一郎先生の筆で、
熱く熱く「ポー」愛を語りつつ、
「ポーをやりたくて宝塚歌劇団に入ったのに、入ってから気付いた、
主人公がずーっと十代の物語はタカラヅカ(のトップ)に不向きだと!!」
的な嘆きも延々と綴られており、あー、だから小池先生の作品にはバンパイア物が多いのか、
主人公の吸血鬼が時空を旅する「薔薇の封印」なんかは本当はポーをやりたかったのね、
などと納得した記憶がある。
(ちなみに小池先生の『エリザベート』ノベライズの解説は萩尾先生で、
 これは往年の、柴田先生-木原敏江先生と同じような、幸せな関係なのだなと思う。)

その解説文を読んでいたからこそ、
「宝塚で『ポーの一族』上演!!」というのは最初は違和感しかなかったし、
ポスターが出てからもずっとコレジャナイ感を抱えていた。
あのポスターは背景に敷き詰められた一面の薔薇が個人的に好みじゃないんだ…
「ポー」=薔薇、ってのはわかってても、
ベルばら(ヅカ版)に通底する「70年代のかほり」が、
私の中のみりお様とかカレー君のイメージと一致しなかったからなんだな。

…実はこの「ベルばらっぽさ」は最後まで引っ掛かる要素だったりする。
みりお様の衣装とか、アイメイク(とにかく目を青く見せる)とか、
クレーン使用のケレンとかが、とってもとっても「ベルばら」っぽい。
「非ヅカファンの思い描くタカラヅカ」って感じがしてしまう。

別に不満を述べたいわけじゃないんですよ。

ただ、見ながら、小池先生の夢とドリーム(それ一緒だから)が画面全体に横溢していて、
その極彩色のドリームに溺れながら「ちょっと落ち着いてくれ~」と言いたくなる感じ(笑)
息継ぎができない、呼吸ができない、
好きなのはわかった、私も大好きだ、あのエピもあのセリフも削りたくなかったのもわかる、
でももうちょっとシェイプアップできなかった?
(幼少期とユーシスあたりは削っても良いと思った。
ユーシス出したかったのかも知れないけど、話をややこしくするだけだし)
(齋藤先生の『エル・アルコン-鷹-』を見たときも思い出した。
まあ『エル・アルコン』のほうが私は萌えと思い入れが強いので興奮しっぱなしだったけど)
(でも曲は『エル・アルコン』のほうが断然いい…ってか、最近の小池作品(not海外ミュー)で
曲が良かったのって『オーシャンズ11』ぐらいじゃないか)

本来のバランスを考えたら、一幕で「ポーの一族」(メリーベルの死、アラン加入)エピ、
二幕で「小鳥の巣」「エディス」(アランの死)エピ、が原作のただしいまとめ方だと思う。
(※個人の感想です)
でもそうするとトップ娘役の出番がなさ過ぎだし、仙名さんはメリーベルのキャラじゃないし、
と思ってたら、シーラを仙名さんが演じて、アラン加入を全体のクライマックスに持ってくる
という構成になっていてびっくりした。

クライマックスはクライマックスとして正しく機能していて、
さすが小池先生!と思ったけれど、
この物語はどの部分を切り取っても絶望エンドにしかならないのだなと
(バッドエンドでも良いのですよ、悲劇と絶望は似て非なるものだから)
やるせなさに胸を締め付けられながら思った。

そう、夢とドリーム(だから一緒だって)に溢れた美しい舞台で、
「いいもの見た!」と素直に賞賛しつつ、でも哀しくてやりきれないのです。

なぜこんなにも哀しいのか。

エドガーの孤独が、「痛い」のだ。


みりお様のエドガーは、まさに「極上の美」。
そこにいるのは、この世ならぬ者。

ポーツネル一家(あきら男爵、仙名さんシーラ、華優希ちゃんメリーベル)も
浮き世離れした美しさで、そして何よりも、カレー君アランの再現度といったら!!
アランが実体を伴って3Dで動いている、という感動。

(実は事前には「ビジュアル的には行けるんだけど、キャラは逆のような気がするんだよな…
カレー君の方が人外歴長そうというか、みりお様の方が熱血似合うというか。」とか
呟いてしまっていたのですが)

このキャスティングが実現したことが奇跡。だと思ったし、
みりお様とカレー君がトップと二番手で揃ったからこその『ポー』上演なのだと納得した。

そして、物語のクライマックスで、エドガーは男爵夫妻とメリーベルを失い、
アランもまた、この世の全てを失う。
窓辺でエドガーの手を取るアラン。
この場面の二人が、血まみれに見えた。
エドガーはクリフォードを殺し、アランも伯父を殺しかけてしまったのだけれど、
そんな他人の血じゃなくて、自分自身が一番傷ついて血を流している二人。

そしてアランも、人であることをやめる。

外野(バンパネラ研究家たち)は口々に、勝手なことを言う。
二人にとってはこれで良かったんじゃないかとか、分かり合えたんじゃないかとか。
そう思わなければやりきれない、これが救いだったのだと思わなければ。

でもこの結末は、救いなのか?

エンディングをアランの死ではなく、「小鳥の巣」の一場面にしたこと、
寄り添って微笑む二人にしたのは、小池先生なりの答えかなあと思うし、
このエンディングは好き。

その上で、描かれなかった「その先」を思う。

哀しくて、とてもやりきれない。


フィナーレのみりお様は、地髪だった。
エドガーでありつつ、「明日海りお」として、階段を降りてきた。
二階席から見ていると、みりお様の肩が本当に華奢で、折れそうに細くて。


「極上の美」を体現し、微笑みをたたえながら、
たった一人で、時空を超える。

タカラヅカは、時間の止まった楽園。
もちろん「終わり」が常に見え隠れする有限の世界で、
その刹那性は永遠の命を持ったバンパネラの対極にあるように見えながら、
儚くて、この世ならぬものという点で、一周回って同じというか、
外界とは異なる時の流れの中を生きる。

この世ならぬ者として、外野の勝手な期待や幻想、ドリームを、全てその細い肩に背負って。


ああ、みりお様は、いや、タカラヅカのトップスターって、バンパネラだったのか。

(同時に森川久美の『シメール』のラストを思い出したあたりが、私の思考回路…)

私のこの感想こそが「外野の勝手な幻想、ドリーム」に他ならないことはわかっていますが、
大羽根を背負ったみりお様の笑顔を見て、泣きそうになりました。

このエドガーを見せてくれて、ありがとう。


老成したエドガーと、リアル少年のアラン、という対比も鮮やかで、
カレー君のアランは、心底いいもの見たなあ、と思います。

仙名さんのシーラは、ハマり役でした! 妖艶でコケティッシュで、吸血鬼の色気もあって。
あきら男爵との絆もしっかり見えて、この二人の「永遠の愛」が、物語の救いになっていたと思います。

華優希ちゃんメリーベルは、上手い! かわいい!
でもタカラヅカを持ってしても、メリーベルの再現は難しいんだなあ。
(優希ちゃんのメリーベルには全く不満は無いのですよ)

そしてちなっちゃんクリフォードがカッコ良すぎた!
私、原作のクリフォードはまあっっっっったく好きじゃないのですが
(メリーベルを殺された恨みしか無い)
このクリフォードなら…遊んでみたい(おいこら)
ちなつ中大兄を見に博多座まで行きたいんですけどね、スケジュールさえ合えばわりとマジで。

マイティも軽い感じがカッコ良かったです!
ヒロ様のキング・ポーはさすがの歌、さすがの存在感。
さおたさん老ハンナは塵になるシーンが凄かった。
飛鳥元組長は、これでご卒業ですね。お疲れ様でした。

そして、ビル役のタソが、マヤさん(未沙のえるさん)にしか見えなくてびびった…
このままマヤさんの後継者になってくれたら嬉しいなあ。

見ながらとっても体力を消耗する作品でしたが、見られて良かった。
うつくしいものを見せて下さって、ありがとうございました。

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