昨夜のオリンパスホールのさだまさしさんの報告なのですが
朝から動いて 現在23時30分 未だ帰り着いて降りません。
戻りましてからのご報告と成りますので御理解 お願いします
と記載しましたが此の後の数日 其れなりに忙しく追記が大変
遅く成りました。
さださん本人が 仰るとおりお話がとても多く
それは其れで良かったのですがオリンパスホールの寒かった事
コンサート開始から3時間休み無く歌い語り
途中・楽器の方が途中退席する程・・・・・
今回・始めて名画座は 東京なのだと知りました。
高校生の頃 渋谷にいらっしゃった様です。勿論ファンの方は
既に御存知の事だったのでしょうが・・・・
今回のオリンパスホールの来客は とても年齢層が遥かに高く
どう見ても平均年齢65歳以上?と思える程の方が多く見られ
ました
『案山子』今回のコンサートの中に有りました。
此れは 生で一番聞きたかった曲でした。
元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか
寂しかないか お金は有るか 今度いつ帰る
中略
手紙が無理なら電話でもいい 『金 頼む』の一言でもいい
・・・・・
18歳の時に『しょっぱい水を渡り生き馬の眼をくり貫く東京な
んて』と昆布の網小屋の壁の合わせ目から差す陽の中で
刺し網を繕っていた義祖母と祖父に泣かれた事を思い出します。
勿論・母にも泣かれましたが・・・
昭和42年春 上京するのにお金が無く 釧路から当時不定期運
行して居た貨客船の二等船室で揺れと気持ち悪さに耐えながら
浜松町の日の出桟橋に着くはずが 大雪で接岸出来ず横浜港に
入り上陸に苦労した事と都議会で都電運行中止が決まったのが
前日 大雪の中唯一動いた居たのが都電だけ(笑)
東京タワーが造られたのが 1958年『昭和33年』
『三丁目の夕日』の物語設定から9年後 今は懐かしい私の17歳
と11ヶ月の思い出です
まさにこの歌の一番最初のフレーズが良く似合う母でした
当時は 残念ながら長距離電話をかけるには とても高く
電報にて『0送れ』と一度だけ送信し電報電話局で半日待った
悲しい思い出が有ります。
チョッピリ感慨深く 案山子を聞いていました。
来年以降 又 機会が有ったら出掛けたいと思っております
上記と下記の追記・編集 08.29.05.00分
しょっぱい水を渡り生き馬の眼をくり貫く東京なんて
と言うフレーズは 当時の祖父母や家族の思いは 青函連絡船
が未だ運行して居りとても遠い遠い他国に近い距離でした。
その後 青函連絡船が未だ運行して居た頃で特急の乗り継ぎ
で上野駅から釧路まで24時間かかり急行で30時間を楽に越えた
程 遠い距離でした。
朝から動いて 現在23時30分 未だ帰り着いて降りません。
戻りましてからのご報告と成りますので御理解 お願いします
と記載しましたが此の後の数日 其れなりに忙しく追記が大変
遅く成りました。
さださん本人が 仰るとおりお話がとても多く
それは其れで良かったのですがオリンパスホールの寒かった事
コンサート開始から3時間休み無く歌い語り
途中・楽器の方が途中退席する程・・・・・
今回・始めて名画座は 東京なのだと知りました。
高校生の頃 渋谷にいらっしゃった様です。勿論ファンの方は
既に御存知の事だったのでしょうが・・・・
今回のオリンパスホールの来客は とても年齢層が遥かに高く
どう見ても平均年齢65歳以上?と思える程の方が多く見られ
ました
『案山子』今回のコンサートの中に有りました。
此れは 生で一番聞きたかった曲でした。
元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか
寂しかないか お金は有るか 今度いつ帰る
中略
手紙が無理なら電話でもいい 『金 頼む』の一言でもいい
・・・・・
18歳の時に『しょっぱい水を渡り生き馬の眼をくり貫く東京な
んて』と昆布の網小屋の壁の合わせ目から差す陽の中で
刺し網を繕っていた義祖母と祖父に泣かれた事を思い出します。
勿論・母にも泣かれましたが・・・
昭和42年春 上京するのにお金が無く 釧路から当時不定期運
行して居た貨客船の二等船室で揺れと気持ち悪さに耐えながら
浜松町の日の出桟橋に着くはずが 大雪で接岸出来ず横浜港に
入り上陸に苦労した事と都議会で都電運行中止が決まったのが
前日 大雪の中唯一動いた居たのが都電だけ(笑)
東京タワーが造られたのが 1958年『昭和33年』
『三丁目の夕日』の物語設定から9年後 今は懐かしい私の17歳
と11ヶ月の思い出です
まさにこの歌の一番最初のフレーズが良く似合う母でした
当時は 残念ながら長距離電話をかけるには とても高く
電報にて『0送れ』と一度だけ送信し電報電話局で半日待った
悲しい思い出が有ります。
チョッピリ感慨深く 案山子を聞いていました。
来年以降 又 機会が有ったら出掛けたいと思っております
上記と下記の追記・編集 08.29.05.00分
しょっぱい水を渡り生き馬の眼をくり貫く東京なんて
と言うフレーズは 当時の祖父母や家族の思いは 青函連絡船
が未だ運行して居りとても遠い遠い他国に近い距離でした。
その後 青函連絡船が未だ運行して居た頃で特急の乗り継ぎ
で上野駅から釧路まで24時間かかり急行で30時間を楽に越えた
程 遠い距離でした。