
秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション
奉天附近お民屋或は柵の燃焼しつつある光景
奉天の祝勝
新民屯(奉天の附近にあり)の本通り
露軍退却後奉天附近の光景
奉天会戦の結末(3月9日~10日)
3月9日、ロシア軍の総帥クロパトキンは、第三軍によって退路を遮断されることを恐れて鉄嶺・哈爾浜方面への
転進を指令した。これは満洲軍総司令部が全く予期しなかった出来事であった。奉天のロシア兵はまだ余力の
ある状態で、総撤退を開始したと思われたからである。ここまでの戦いで大きな損害を受けていた日本軍は
3月10日、無人になった奉天に雪崩れ込んだ。第四軍はロシア軍を追撃し、2個師団に打撃を与えた。なお、
この日は翌年に陸軍記念日と定められている。日本側の死傷者は約7万5000であった。
ロシア軍の損害もまた大きく(ロシア側の死傷者および捕虜約9万)、回復には秋頃までかかる状況であった。
しかし、ロシア軍が受けた最も大きな損害は士気だったと言われる。鉄嶺までの暫時退却であったはずだが、
その過程で軍隊秩序は失せ、略奪、上官への背命など、軍隊としての体をなさないまでに崩れたという。
そのためクロパトキンは鉄嶺も捨ててさらに北へ退くと、すぐに日本軍が鉄嶺を占領している。哈爾浜に逃れた
クロパトキンは第一軍(英語版)司令官に降格させられた。
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