なんとなく、ふわっと・・

写真と画像処理関係とひとりごとをなんとなく書き溜めていきたい

日本歴史写真帖 135

2025-01-04 22:13:21 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

日本軍隊遼陽入城の光景

城壁の破戒口より遼陽に入りつつある日本兵  九月四日第五師団工兵遼陽に入城の光景
南大門おり露国の捕虜を出す


遼陽会戦

日本側資料によれば、遼陽会戦における日本軍の死傷者は約2万2千、ロシア軍の死傷者は
約2万5千であり、日本軍も多大な損害を受けたことがわかります(関連資料2、関連資料5)。
日本軍は戦略上の拠点である遼陽を確保しましたが、当初の目標であるロシア軍の包囲
殲滅には失敗し、それによる早期講和の実現も達成することができませんでした。これ以降、
日本軍とロシア軍は満州の広野でお互いに睨みあったまま、厳しい苦闘を繰り広げることに
なります。

from 日露戦争史 遼陽会戦


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日本歴史写真帖 133

2024-12-29 22:11:07 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


奉天附近お民屋或は柵の燃焼しつつある光景
奉天の祝勝
                  新民屯(奉天の附近にあり)の本通り

    露軍退却後奉天附近の光景


奉天会戦の結末(3月9日~10日)

3月9日、ロシア軍の総帥クロパトキンは、第三軍によって退路を遮断されることを恐れて鉄嶺・哈爾浜方面への
転進を指令した。これは満洲軍総司令部が全く予期しなかった出来事であった。奉天のロシア兵はまだ余力の
ある状態で、総撤退を開始したと思われたからである。ここまでの戦いで大きな損害を受けていた日本軍は
3月10日、無人になった奉天に雪崩れ込んだ。第四軍はロシア軍を追撃し、2個師団に打撃を与えた。なお、
この日は翌年に陸軍記念日と定められている。日本側の死傷者は約7万5000であった。

ロシア軍の損害もまた大きく(ロシア側の死傷者および捕虜約9万)、回復には秋頃までかかる状況であった。
しかし、ロシア軍が受けた最も大きな損害は士気だったと言われる。鉄嶺までの暫時退却であったはずだが、
その過程で軍隊秩序は失せ、略奪、上官への背命など、軍隊としての体をなさないまでに崩れたという。
そのためクロパトキンは鉄嶺も捨ててさらに北へ退くと、すぐに日本軍が鉄嶺を占領している。哈爾浜に逃れた
クロパトキンは第一軍(英語版)司令官に降格させられた。

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日本歴史写真帖 132

2024-12-23 22:19:40 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


同右               第二師団輜重兵第二大隊招魂祭余興相撲
同上余興仮装夫人         さしょうぽ清河座の演劇(満州)


輜重兵(しちょうへい)は、旧日本陸軍の兵科の1つで、戦時に軍需品の輸送や補給を任務としていました。
駄馬や車両、自動車などを用いて迅速かつ確実に任務を遂行することが求められていました。

google Search Labs | AI による概要


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日本歴史写真帖 130

2024-12-17 23:17:04 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


黒溝臺附近蘇麻堡に於ける我軍の屍體
            黒溝臺附近蘇麻堡に於ける敵軍の屍體


黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)とは、日露戦争中の1905年1月25日 - 1月29日にロシア満洲軍の
大攻勢により起きた日本陸軍とロシア陸軍の戦闘。ロシア側の奇襲により始まり、兵力で劣勢だった
日本軍は緒戦こそ苦戦したものの、結果的には日本の辛勝に終わった。欧米陸軍では、ロシア陸軍の
作戦目標が沈旦堡であったことから沈旦堡付近の戦闘とも言う。

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日本歴史写真帖 129

2024-12-11 23:00:28 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


日本軍の砲弾により火災を起こしたる旅順工廠災焼の光景


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日本歴史写真帖 128

2024-12-05 23:20:34 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

日本軍占領後に於ける旅順口内の真景


旅順口攻撃(りょじゅんこうこうげき、リューシュンコウこうげき)は、日露戦争の開戦した
1904年(明治37年)2月から5月にかけて行われた大日本帝国海軍連合艦隊による
ロシア帝国海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)に対する攻撃である。

日本海軍は、日本本土から大陸への海上輸送を脅かすロシア艦隊を無力化するため、
旅順口攻撃を計画した。日本海軍は水雷夜襲等による八次にわたる攻撃と三回の閉塞
作戦を実施した。 この攻撃でロシア太平洋艦隊は旅順に封じ込まれ、本土から大陸までの
陸軍の揚陸や補給が容易になった他、第一次日韓協約が締結されるなど戦地に連なる
韓国との外交関係を有利なものとした。しかし、旅順港に籠るロシア艦隊に決定的な打撃を
与えることには成功せず、艦隊が温存されたことにより日本から満州に到る制海権が
脅かされたため、陸上側からの旅順要塞の攻略が必要となった。




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日本歴史写真帖 127

2024-11-29 23:08:08 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


奉天安州軍総司令部

奉天は日露戦争の舞台でもあり、1905年(明治38年)2月から3月にかけて、満州(現在の
中国東北地方)の奉天周辺で日本陸軍とロシア陸軍が戦った大規模な戦闘を「奉天会戦」と
いいます。

<Google Search Labs | AI から>

奉天会戦(ほうてんかいせん、フォンティエンかいせん)は、1905年2月21日から3月10日に
かけて行われた、日露戦争における最後の大規模な会戦である(日露戦争において最後の
戦闘は樺太の戦いとなる)。

奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に
亘って満洲の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。しかし
この戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を
待つことになる。

参加兵力は大日本帝国陸軍24万人、ロシア帝国軍36万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側
アレクセイ・クロパトキン。


評価

日露双方の兵力が衝突した最大・最後の陸上戦である。ロシア陸軍大臣のウラジーミル・
ヴィクトロヴィチ・サハロフ(英語版)は、奉天会戦後「二つの軍が戦場で出会うとき、それぞれ
一つずつの目標を持っている。その目標を達成した方が勝者である。だから我がロシア軍は残念
ながら敗れた」と述べ、ロシア軍の敗北を公式に認めた。ニコライ二世は奉天会戦での敗北を
屈辱的なものと感じ、ロシア満洲軍総司令官を慎重派のクロパトキンから猛将として知られていた
リネウィッチに変更するという人事を行っている。一方の日本側も戦いに勝利したものの、兵員
不足・砲弾・物資不足に陥り、北方へ悠々と退却するロシア軍に対して追撃を行うことは不可能
であった。このことにより日本軍の辛勝とする意見も存在するが、世界では日露戦争の日本勝利を
認識させる大きな結果につながった。


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日本歴史写真帖 126

2024-11-23 23:38:38 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

松山に於ける露国負傷平癒水兵と我国医師及看護婦



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日本歴史写真帖 125

2024-11-17 22:26:54 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

日本軍安東懸に於て露軍中隊長を軍葬するの光景


安東懸 = 遼寧省東港市の古称

東港市(とうこう-し)は中華人民共和国遼寧省丹東市に位置する県級市。

1876年(光緒2年)、清朝により設置された安東県を前身とする。1965年に東溝県と改称、1994年に
県級市に昇格し東港市と改編され現在に至る。

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日本歴史写真帖 124

2024-11-11 23:51:20 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

遼陽に於ける我軍戦死者の遺骸捜索と埋葬の光景


遼陽会戦(りょうようかいせん、リャオヤンかいせん)は、日本とロシアが満洲、朝鮮半島などの権益を巡り、
1904年(明治37年)に勃発した日露戦争における会戦。同年8月24日から9月4日まで行われた。両軍の
主力がはじめて衝突した戦いで、ロシア軍は15万8,000の兵をもって防御網を展開し、日本軍は12万5,000の
兵で、計28万の兵が衝突。鴨緑江会戦と並び、日本軍にとってははじめて近代陸軍を相手にした本格的
会戦であった。

日本軍は、ハルビン攻略が望めなくなったことから、基本戦略の変更を余儀なくされた。遼陽会戦は日本軍の
遼陽入城に終わったが、クロパトキンは戦略的後退であると主張し、両軍が勝利宣言を行う。死傷者は日本側が
2万3500、ロシア側が2万あまりで、両軍あわせて4万人以上にのぼった。

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日本歴史写真帖 123

2024-11-05 22:33:42 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


戦闘中 露国塹壕に於て


Tieling = 鉄嶺市

鉄嶺市(簡体字:铁岭、繁体字:鐵嶺、ピンイン:Tiělǐng、直訳すると「鉄峰」)は、中華人民共和国遼寧省にある
14の地級市のうちの1つです。鉄嶺市は石炭採掘が重要な産業となっている都市です。



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日本歴史写真帖 120

2024-10-30 21:11:27 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

三月始め露軍奉天に下車す


奉天会戦(ほうてんかいせん、フォンティエンかいせん)は、1905年2月21日から3月10日にかけて行われた、
日露戦争における最後の大規模な会戦である(日露戦争において最後の戦闘は樺太の戦いとなる)。

奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満洲の
荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。しかしこの戦いだけでは日露戦争
全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。

参加兵力は大日本帝国陸軍24万人、ロシア帝国軍36万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・
クロパトキン。

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日本歴史写真帖 119

2024-10-24 22:10:26 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


鳳凰城にて撮影したる黒木第一軍腑外国従軍武官と新聞通信記者

1894年(明治27年)7月25日、日本と清の軍隊が武力衝突を起こして、日清戦争が始まります。戦争前は
国力の差から圧倒的に清が有利とみられていましたが、実際に開戦すると日本が終始優位に立ちました。

9月15日の平壌の戦いと、その2日後の黄海海戦で勝利した日本軍は清の領内へ進撃。山縣有朋(やまがた
ありとも)率いる第一軍は鴨緑江を渡り、10月26日に最初の清の拠点である九連城(きゅうれんじょう)
を陥落させると、3日後にはその北西にあった鳳凰城への攻撃も行います。しかし、清軍は不利な戦況を
見てすでに撤退を始めており、日本軍は本格的な戦闘に至ることなく鳳凰城占領に成功しました。

from 刀剣ワールド浮世絵


黒木 為楨(くろき ためもと、旧字体:黑木 爲楨、1844年5月3日〈天保15年3月16日〉- 1923年〈大正12年〉
2月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。伯爵。通称は七左衛門。

天保15年3月16日(1844年5月3日)、薩摩藩士・帖佐為右衛門の三男として薩摩国鹿児島城下加治屋町
猫之薬師小路(下加治屋町方限)に生まれる。のち、黒木万左衛門為善の養子となり黒木姓を名乗る。

1904年(明治37年)1月、軍事参議官に就任。同年2月、第1軍司令官となり、翌月、日露戦争開戦に伴い出征。
鴨緑江から奉天会戦まで連戦し、ロシア軍からは、「クロキンスキー」と恐れられた。欧州では、ニコライ2世
(ロシア皇帝)が「猿のような」と評した日本人が単独で大国ロシアに勝てるわけがないと思われて、指揮した
黒木は長年ロシアに苦しめられてきたポーランド人と報道した新聞もあった。

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日本歴史写真帖 115

2024-10-18 23:08:34 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


英国ヴィクトリア女皇陛下より派遣せられたる同国看護婦の日本赤十字社事務視察の光景


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日本歴史写真帖 113

2024-10-12 23:36:14 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


露国波羅的所属中優良なる戦闘艦
日露戦争におけるバルチック艦隊の主力艦

バルチック艦隊、バルト海艦隊、バルト艦隊(バルト(かい)かんたい、英: Baltic Fleet 英語発音: [bɔ́ːltik flíːt](ボールティック・フリート)、
露: Балтийский флот, БФ、ラテン文字転写:Baltiyskiy flot)は、ロシアないし旧ソビエト連邦海軍のバルト海に展開する艦隊を指す。

バルチック艦隊という呼び名は特に日本において広く定着しており、日露戦争の際にロシア帝国が編成した「第二・第三太平洋艦隊」のことを
指して「バルチック艦隊」と呼ぶ場合も多い。すなわち旅順港に封じ込められた極東の太平洋艦隊を増援するために上記のバルト海艦隊から
戦力を引き抜いて、太平洋艦隊の一艦隊として新たに編成した艦隊を指す(後述)。第二・第三太平洋艦隊が日本の連合艦隊との日本海海戦で
惨敗したことで、バルチック艦隊は多くの主力艦を失う損害を受け、復興に時間を要することとなった。

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