本の感想

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日本文学史序説下(加藤周一)を読みながら考えた 第11章工業化の時代③

2022-12-17 21:45:34 | 日記

日本文学史序説下(加藤周一)を読みながら考えた 第11章工業化の時代③

 実は私は小説をあまり読まない。猫と坊ちゃんは小さいころから何度も声をあげて笑いながら読んだにもかかわらず漱石の三部作は何度も挑戦してとうとう読み切ることができなかった。小説を娯楽と考えているのである。それで今まで小説家を、娯楽作品をつくるシナリオライターのように思っていた。だから里見八犬伝や水滸伝や三国志演義や聊斎志異は読むけれど、なにか深遠なものが書かれているものは遠ざけていた。

 深遠なことは、ノンフィクションで随筆風に書けば誤解なく伝わるんだから小説にする必要がないではないかと思っていた。なんであんな面倒くさいように描くんだろうと考えていた。しかし、520ページ「川端は彼自身の感覚的世界を描き・・・・・・」でやっと今頃になって、小説は映画そのほかの芸術と同じように作者の感覚的世界を表現し伝えるための手段であることに気づいた。このことは、年若いころに気づくことが無ければ一生気づかぬままであったろう。どうしても伝えたいことは千万言の言葉を費やしても伝わらず感覚の世界でしか伝わらぬことはあるだろう。

 例えば、ロスジェネの世代の人はその一つ上の世代の人は楽をして得な世代であったと思っている。数々の数字をみれば楽であったことは間違いない。しかし、上の世代のヒトが当時の日本にはびこっていた集団主義的な価値にどのくらい悩まされ苦しんだかの感覚的な苦労はよほど上手な小説家の手によらねば書けないだろう。さらにその上の世代が戦争で受けた苦労も同じようによほど上手な小説家の手によらねば書けないだろう。さらにその上の世代がは以下同様である。

 このことは、例えば谷崎の細雪を軍部が発禁にしたことの理由でもあるだろう。なにも軍隊に不都合なことは書いてないけど、その感覚的世界がいけないとされた。では、軍人さんの中にこの本の感覚的世界を感じる能力のある繊細な人が居たということか。普通の人ならこんな下らんこと書いて紙とインクの無駄じゃないかと思うだけじゃないのか。案外軍隊というのは幅広い人材を集めていたんだなと、変な風に感心してしまった。幅広い人材を集めていてかつ組織が甚だ柔軟でないとは矛盾している。

 2000年くらいから日本は大きく変わった。そのいちいちをあげるときりがないくらい変わった。その変わり方も感覚のことだからそれを表現するのも小説などによる方が早いしわかりやすいと思う。手練れの芸術家ならこの変化を感覚的にごく短時間で表現しかつどう対処すべきかも表現できるのかもしれない。してみると、芸術とは実に偉大な力を持っていることになる。たった一節ではあるが、いままで自分は読めていると思っていたことが実は読めていなかったことを知るに至った。

 そこでこの本を読み終えたら、加藤周一の「芸術論集」を読むことにしたい。


日本文学史序説下(加藤周一)を読みながら考えた 第11章工業化の時代②

2022-12-17 10:21:38 | 日記

日本文学史序説下(加藤周一)を読みながら考えた 第11章工業化の時代②

 この著者の魅力は、絶対に好き嫌いや価値があるとか価値が落ちるとかを書かないで、また優れたところは控えめに書くけれどいけないところは絶対に書かない姿勢を通しているところにある。多分著者がお医者さんで自然科学の論文を書く要領で文学史を書くとこうなるんだと思う。だから読後こちらの気分がすっきりしている。私は文学史の本を他に読んだことはないけど、こういうものはだれが書いても好き嫌いが出るものだと思う。

 特に驚くのは、文芸の分析力の高さである。中里介山の「大菩薩峠」は日本史上最長の小説とされているが、大衆娯楽小説であり当時娯楽が無かったからこれが流行ったそれだけで書くことは終わると思うのだが。この本の中ではこのように分析されている。「大衆が歓迎したのは虚無主義的剣客であり、一時代の日本の民俗の一部と化した。それは第一次大戦後の社会的変化の中で中下層の中産階級に広がっていた心理状態を鋭く反映していたに違いない。…体制への一般的な反抗の気分があった。」

 そういえば昭和40年代にはまだ柴田錬三郎の虚無的な剣客の小説が盛んに売れていた。司馬遼太郎の初期の作品にも虚無的な剣客が出ていた気がする。虚無的な剣客になりきって読む読者が多くいたことは間違いない。それが読者のおかれた社会的状況からくる心理状態を反映するとは、大変な卓見だと思う。周囲に上層中間層または上層に上るかもしれない仲間がいるところで、どうあがいても上層に上がれそうにないが自分には上がるだけの能力あり(ただし運と気力には恵まれていないかも)と自負する層は、格好いい虚無主義に走るのかもしれない。昔柴田錬三郎の小説を少しは愛読したしたことがあるので、身につまされるものがある。

 当時のテレビや映画にもこういう虚無主義的な剣客が登場することが多かった気がする。社会現象であったのだろう。または当時はやった学生運動の心理的な背景もこれであったのかもしれない。どうせ自分たちは上に上がれない。だったら格好よくニヒルに行こうということか。学生運動は、それに関係しなかった者から見るとニヒルとは言えないが、格好いいものと映っていた。学生運動華やかな時代、私は柴田錬三郎の剣客に格好よさを見出しただけかもしれない。もう大昔のことで取り返しがつかないことかもしれないが、昔のことを反省する糸口になった。自分はこんだけやっているのになんでこうなんだというやけくそな気分が私だけではなく私の周囲に蔓延していたのかもしれない。自分は社会の流れからは超然としているんだという誇りがあったが、その超然そのものが諦めの気持ち反抗気持ちの表現であったのかもしれない。

 今だったら、このような反応は小説ではなくコミックに表れているのではないか。あるいはまったく別な反応になっているのか。

 文学史を読んで自分のことを反省することができるとは意外なことであった。当時加藤周一のこの部分に接していて自分のことを反省することができれば、自分の人生が変わっていたかもしれないと思うところがある。