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映画 アラビアンナイト三千年の願い② あるいは世界残酷物語のバージョン2かも

2023-05-17 12:14:29 | 日記

映画 アラビアンナイト三千年の願い② あるいは世界残酷物語のバージョン2かも

 こう思い当たった。ビンから飛び出した召使の魔物は、本当の願いに出会えたら自分は人間になれるというようなことを言う。軽く聞いていたが、これが物語の決定的ポイントかもしれない。ならば、シバの女王もハーレムの王様も本当の願いを言わなかったまたは本当の願いが無かったが、このイギリスの初老の女性学者には本当の願いがありましたそうして本当の願いを言ってくれましたということを言いたいのかもしれない。三千年探し回ったけど本当の願いはここにあったという物語の造りになっていそうである。あちらこちら探し回ったけど幸せは自分の足元にあるという「青い鳥物語」と同じである。

 よく似た話に我が国の竹とり物語や、もう半世紀以上前に一世を風靡した映画世界残酷物語と同じ構造が見られる。世界残酷物語では、少女に世界一残酷な話を集めてきたら結婚しましょうと言われて残酷な場面に遭遇するように世界を経巡って(そんなことありえへんやろと思いながら見ていたが)、もうよかろうと帰ってきたところ少女は老いの陰激しく結婚の意志が萎えてしまった。この時間の経過が一番残酷なことですよという物語であったように記憶している。

 なぜ人はこんな物語を必要としているのか。あちこち幸せを捜し歩いているけど実は何が幸せかわからんようになってきたということではないのか。( むかしは、幸せの基準がほぼ万人共通であった。御飯が食べることであった。)この映画は何が幸せかが分かっているうちはまだやり様があったが、社会の構造が複雑になってしまって幸せの意味が分からんようになってしまったことを揶揄しているのか。

 

  この映画の特色は(世界残酷物語もそうであるが)登場人物の誰とも観客が一体化しないのである。普通はヒーローと観客が一体化するところが映画の良いところである。観客は我を忘れている時間に無意識に普段の自分を反省しより良く生きていく計算ができるとわたしは思う。しかしこの映画は、登場人物と観客は徹底して他人であるから、その意味では観客は非日常の世界に遊んで普段の自分を反省するということができない。であるのに、私は三千年の願いを見ながらいろいろ普段の自分を反省するまたは先々の方針を立てるところが少しはあった気がする。これをあほらしいことと他人は言うかもしれないが、実感としてそうすることで自分の人生うまく行きそうな気がする。

   おお思いついた。四谷怪談は、(この三千年の願いと同様)登場人物の誰とも一体化しないししたくもない。しかし、あれを見ている間、私どもは自分の日常の何かを反省しているはずである。そうして少しでもうまく生きることができるようになるのではないかと思う。本能に従って生きることが許されなくなった以上または本能が弱くなったのであるから、私どもは時々は非日常の世界に遊んで自分の本心がどこにあるのかを探さねばならない。お猿さんは映画も見ないし小説も読まないで済むのである。親ザルは子ザルにかちかち山や猿蟹合戦の物語を聞かす必要はないのである。本能を見失うと生きていくのに物語に接するという余計な手数がかかるが我々はそれを省略してはならないのである。三千年の願いは、反省ができるという意味では四谷怪談と同等の価値ありと思う。この映画はそれができるという意味でもっと高く評価されるべきではないか。

  昔のヒトは神話やおとぎ話で本能の足らないところを補った。今のヒトは社会構造が変化しているから接するべきお話が昔とは変化する必要がある。新しいストーリーテラーがどんどん生まれることが期待される。