空海の風景(司馬遼太郎)
多分司馬さんは、加持祈祷をする密教に反感をお持ちであったのではないか。どうも空海をあまり好意的に書いていない。義経や家康(覇王の家)も好意的でないが空海が一番お嫌いのようである。
私は小さいころから聖徳太子や空海、さらにはせめて菅原道真のように賢いヒトになるように親から言われ続けてきたが、そんな風にうまく物事が運ぶはずがなかった。(ついでに、道真のように雷になって恨みを晴らすのは良いことなのかとの疑問は小さい時から持っていた。)親の意向に逆らうようだが、これはとてもうまく行かないと思い始めたころに初めて司馬さんのこの小説を読んで、わが意を得た。なれないのではなく、なる必要がないと納得して肩の荷を下ろした。そういう意味では、私にとってアリガタくて私の人生のエポックメイキングな小説であった。これを今回読み直してみた。
まず超人的な文才はあるが、それを一番高く売れるように策をめぐらす人として描いている。(空海は決してお人好しではない。)今でも多少そういうところがあるかもしれないが、司馬さんのサラリーマンであった頃(戦後の昭和)の会社で出世しようとすると、自分の才能を常に表現しては駄目である。普段は才能があるように見せかけておくだけにして一番高く売れるタイミングでその力を売るという芸がいったのである。サラリーマンと言えども会社の中で出世しようとすると個人営業の才能もいるのである。(ナルタケ会社の言うとおりにおとなしくしていてそれで出世しようというヒトをよく見かけるがそれは下策である。まあ係長どまりである。)空海をその芸あるヒトとして描いている。世間をうまく泳いでいく俗物の要素ありとして描いている。(奇しくも司馬さんも文を売るサラリーマンであった。ひょっとして司馬さんも同じようなことしたんじゃなかろうか。)同じような場面は、空海が勝手に帰国して朝廷の怒りをかった時の処理の仕方にも表れている。空海を謹厳な宗教家としてではなく、上手な世間師として描いている。これがこの小説の画期的なところである。
私の親が、空海を世間師と見て「あのようになりなさい。」と言ったのならこれまた別の意味で私にはとてもなれなかったであろう。どっちにしても真似することはとてもできない人である。無理なことを我が子に要求するものではない。
さて、司馬さんの空海の描き方で説明不足を感じるのは後半の宗教王国を建設するところである。芸術と宗教に理解ある嵯峨天皇と友達のようになることで高野山に王国を開くことができたように書いてある。勿論それあるだろう。しかし、さらに一歩を進めてこんな風に考えてこう書くとさらに面白かったように思う。
平安初期はその後の時代と違って、呪うとかその呪いを封じるとかの力が権力闘争に用いられたと聞く。(暴力はもちいられること少なかったらしい。いまなら呪いに代えて文春砲を用いる。)空海は最新の呪いの技術を持った人である。味方に付ければいいけど敵につかれると厄介である。聞けば最澄も多少の密教の知識があるらしい。人柄の穏やかな最澄が比叡山にいるのは構わないが、どうも不気味な空海は遠く高野山にでも行ってもらわないと危険きわまりないと、嵯峨天皇は思ったのではないか。嵯峨天皇は近衛軍を比叡山において、なにするか分からない部隊を遠くに放りだそうとした。実際のところはどうだか知らないが、こんな風に描くとこの後の最澄と空海の仲たがいも何となく説明がつきそうである。
空海は最澄と仲たがいするところ人間臭さが出ていてホッとするエピソードである。決して悟りきった宗教家ではない。百点満点の立派な人ではない。ちょうど、課長部長と仲良く出世をしたのに、取締役になったとたんに嫌がらせをするようなものである。空海さんごく普通のヒトである。