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1986年10月15日印刷 1986年10月20日発行
著者は山川暁。1941年東京生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社に8年勤務したのちフリーで執筆活動を始める。
江戸時代末期の日本の皮革の生産量は微々たるもので明治になってからも圧倒的に輸入が多い。質も日本のものは輸入のものにかなわなかった。元々食肉用の家畜が日本にはおらず、もちろん皮革をとるためだけに家畜を飼うこともない。皮革は猟師が獲った鹿や熊等の獣以外は農耕や荷駄用の牛馬が死んだ場合のみ得ることができた。またそれで需要も足りていた。そんな状況だったから流通も限られ皮を革に加工する技術も未発達。また日本製の革は西洋靴には不向きだった。1930年頃になっても革の自給は20%。戦時中は皮革も統制されたが、ナチス・ドイツの大規模な軍拡による世界の革の買占めにも日本は苦しめられたりもした。
皮革といえば賎民を思い浮かべるが、日本の靴職人は武士の子弟が中心だった。藩が進んで靴の工場を建て士族の子弟をそこに入れた。ここでいう靴とは軍靴。近代的な軍隊はまずは革靴からということ。大正末期になり軍靴の需要が少なくなってきた頃「和服に靴」キャンペーンがあった。
江戸時代、皮革は誰にでも扱えるものではなかった。皮革を扱うことができるのは被差別民だけに限られていた。弾家のことが書かれている。弾左衛門(直樹)。弾家は鎌倉時代から続く名家だが身分は被差別民。職権は町奉行に隷属する。関八州の町里を支配。自ら牢獄を備え悪党を収監する権があった。その勢力は非常なもの。ただし被差別民に限定された枠内でのこと。弾家は武蔵、上野、下野、常陸、上総、下総、安房、相模、甲斐、伊豆、駿河、陸奥の牛馬から得られる皮問屋。弾役所と呼ばれた。関東にはこのような皮問屋が四軒しかなかった。独占企業。一般の被差別民には皮革の独占から生じる利益が還元されることには決してなかった。
弾家は後に士分に身分を引き上げられる。三千石の収穫が上がる田地と常に百万両以上の金を持つ家で関八州と東北の皮革一手に扱う権利をもつ。幕府は弾家に対し、江戸市中の治安維持のため兵隊の養成を命じ、その費用も弾家の負担とした。弾家のこうした負担の見返りに弾家は幕府に身分変更を要求し認められた。
明治4年8月、解放令が発布される。被差別民は身分からは解放されたが、それまで持っていた収入源や権利も剥奪されてしまう。皮革や食肉を扱う権利は特権というほど良いものではないかもしれないが、他からの参入を許さず独占的に扱えるという点から競争からは守られていた。弾家も例外ではなかった。それまで持っていた全ての権利を失う。弾家は早々に皮革問屋業から靴製造に業態の転換を図った。順調に業績を伸ばす時期もあったが、競争には勝てず他社に吸収される形で長い皮革産業へのかかわりを終える。明治維新は士族と被差別民の生活を大きく変えた。
2007年5月27日 追記
弾家とまるで弾が苗字のように書いてしまっているが、これは誤り。矢野が苗字。矢野弾左衛門が正しい。名前を直樹に変え弾を苗字にしたのは明治になってから。
弾左衛門の家系が鎌倉時代から続く由緒ある家柄となっているのはこの本にもそう書いてあったからだが、実際は良くわからない。長吏であったことは間違いなさそうだが、鎌倉時代から続く由緒はどうも六代目弾左衛門の捏造であったようだ。