十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」 (集英社新書) | |
クリエーター情報なし | |
集英社 |
2017年8月14日第1刷発行
著者は1930年生まれ。作家。1963年、「歪んだ朝」でオール読物推理小説新人賞を受賞しデビュー。
本名は矢島喜八郎。東京陸軍幼年学校に入学。昭和5年生まれだから父とは一つ違い。
父は国民学校を出て熊谷陸軍飛行学校へ行くかどうか迷ったと聞いたことがある。この話は本人が晩年に語ったことで他からは聞いたことがない。だから話半分。立川飛行機に職を求めてほんのわずかの期間だが東京に住んでいたのは事実。この時期の話はなかなか興味深かった。
素潜りで鯉を捕まえていた話、増水した川を泳いだ話、学校の女教師が毎日山越えで徒歩で通勤していた話、東京に行く時に知り合いから東京に子供がいるから渡してくれとオハギを持たされたが東京のどこにいるのか探すのに苦労した話。東京には何でもあったが金がないのでつまらなかった話。工場で兄貴分から目をかけられ苦労はなかった事。戦闘機を松林に隠していたらグラマンから機銃掃射にあい松の幹にしがみつき難を逃れた話。工場が空襲にあい何日もかけて岡山に戻ってきた話。岡山の飛行機工場で勤めたが、駅前の宿舎が空襲でそこも焼け出された話。祖父が心配して迎えに来たこと。戦後は職がなく酒浸りでよく伯父が街まで迎えにきた話。マラソン選手で大会に出た事、バンドを組んで演奏していた話、母と出会いオートバイに乗り遠出をした話。勤め先で空気銃を皆で囲んでいたら天井に向かって暴発して天井が穴だらけになった事、まんが悪いことにそこに警官が偶然来て皆で平静を保つのに苦労した話。こんな話を年老いてからもっと聞こうとしたが既に時期を逸していた。
この本は何の気なしに手に取った本だが15歳、16歳でどれだけの事を覚えているのか。自分で自分の事を思い出してみても記憶はおぼろげ。ただそんなものなのかも知れない。淡々と過ごした15歳前後の事など覚えていないことが普通なのだ。しかし昭和20年という特別な年を挟んでの記憶は強弱はあれど焼き付いているに違いない。父の話と比較してみよう、西村京太郎だとどうなのかと思い借りた。
読み終えて流石に父とは違うなとは思う。それは表現者としての違いか。知識の後付けも多い。多いがそのまとめ方が小説家らしい。でも父の話の方が面白かった。
以下メモ。
--↓---------------
P64 玉音放送の後、何台ものトラックがやってきた。呼んだのは、生徒監や下士官たちである。大型トラックに倉庫にあった大量の食糧や衣服などを積み込んで、何処かへ運び出していった。・・・・。アメリカに渡さないというのは、本心だろうが、自分たちの生活のために、運んだのは、間違いない。生徒監の一人は、戦後の闇市で、あの時の品物を使って成功しているからだ。
P66 日本は、焼土からから立ち上がったとか、ゼロから出発したというがこれは明らかに嘘である。なぜなら、敗戦の昭和20年でも、一か月に一千三機の軍用機を作っていたからだ。(P79 9月5日の新聞記事から)
P67 重工業の設備についても、同じことがいえる。
戦時中のピーク時を100とした場合
水力発電 103%
銑鉄 99%
鋼材 101%
銅 82%
工作機械 63%
硫酸 86%
P68 復学したのは、昭和21年4月だった。
P68 アメリカのベースだった。とにかく、物があふれていた。パンの残りなんか、どんどんくれた。それが、イギリスのベースに行くと、逆に、何にもなかった。
P69 ただ私の記憶も、年とともに、鮮明さを失っていくので、正確を期すために、新聞の力を借りることにした。まず、戦後最後の8月14日の新聞である。
P122 昭和21年4月 中学四年に復学。
P123 アメリカと4年間戦いながら、本当の敵愾心がわかなかった。あまりの力の差がありすぎると、怒りが具体化しないのだ。
P124 一番の原因は、政府(軍部)が戦争を美化したことだろう。「玉砕」という言葉で美化したのだ。戦争自体を美化され、敵のアメリカ兵も、美化されてしまう。更にいえば、もともと、日本人は、アメリカ人が好きだったという人もいる。
P125 日露戦争の時には、アメリカ大統領が和平を斡旋してくれた。軍部は別にして、一般の日本人は、アメリカを嫌いになる理由がなかったのである。
P125 と、考えていくと、戦争が終わったとたんに、引っくり返ったのではなく、元へ戻ったというのが、正しいところではないだろうか。豹変する国民性というのも、簡単にはその通りだとは、いいにくい。逆に、中国人に対しては、戦争が終わっても、態度は変わらなかった。
P128 昭和23年3月に、旧制中学の5年を卒業した。就職することにした。新聞を見ていたら、日本にアメリカ的な新しい人事委員会を設けるため、国家試験が行われるとあった。
P130 これからの役人は、パブリックサーバントでなければいけないということと、「同一労働同一賃金」の実現ということだ。
あれから70年たった今、新聞を見たら「同一労働同一賃金」という言葉があってびっくりした。
P131 日本のように、大学卒とあると、卒業証明書が必要になる。その仕事に、たまたま、適当な人がいなくて、高卒者を充てることになると、どうしても、給料が低くなってしまうのである。多分、この悪循環は永久に続くだろうから「同一労働同一賃金」は、実現されずに終わるだろう。
P131 昭和23年、研修が終わると、私たちは、臨時人事委員会の職員になった。
P133 文学クラブに入った。同人誌「パピルス」を出したが、私は、まだ小説など書いてなくて、、、、
P137 東京通信工業の社員がラジオの組み立てキットを売りに来る。実は自社株をすすめに来た。
P144 29歳で人事院を退職する。作家を目指す。
P146 退職金は給料1年分。親には内緒。退職金を小分けに親に渡しながら職を転々とする。パン工場住み込み、競馬場の警備員、私立探偵をやりながら小説家を目指す。
P153 昭和38年、32歳の時に「歪んだ朝」でオール読物推理小説新人賞受賞。短編では仕事は来なかった。
P154 昭和40年、「天使の傷痕」で江戸川乱歩賞受賞。これでも仕事は来ない。
P155 昭和42年、「21世紀の日本」の小説部門で「太陽と砂」で入選。石原慎太郎、宮本百合子、フランス文学専門家の3人が選考委員。この三人に併せた小説にしたそうだ。この頃から仕事が来るようになるが、編集者のアドバイスがなければ売れっ子にはなれなかった。
P163 日本人は戦争に向いていない。ここから15歳とは関係なくなるので飛ばし読み。
--↑---------------
(2018年5月 西図書館)