杉田 達雄 「日中友好三十年の虚構と真実」 こうべ書院
2004年8月15日発行(自費出版 図書館へ寄贈)
著者は大正8年2月 香川県高松市生まれ。
昭和14年徴収。
昭和31年兵庫県少年補導官
昭和34年神戸大学聴講生
昭和45年㈱昭和産業入社
昭和59年大清道路入社
平成 5年退職
著者は終戦までの7年間を中国大陸で軍務につく。隊外勤務が多く大隊本部、師団司令部での勤務が長かったとある。
本から拾える著者の終戦時の状況は下記のとおり。戦っていた国民党軍の要請で武装解除されることなく共産党軍と対峙する状況がわかる。
↓以下昭和20年8月15日の前後の要約。
『中支派遣「3集団軍(正式には第十一軍)」に属し一時南支派遣軍に編入されマカオ付近(関東省中山県)で米軍の上陸に備えての陣地構築を行っていた。その後命令により北上し南昌で終戦になる。
武装解除のため南京に向かうが、共産党軍との抗戦中の重慶軍(国民党)の要請により歩兵第二百三十五聡隊第三大隊が南京郊外の壁鎮で新四軍(共産軍)の襲撃からの防御にあたることになる。
この頃、著者だけでなく一般的に共産軍、国民党軍からリクルートがあったという。日本兵は即三階級特進だったそうだ。
壁鎮の街に着くと大勢の住民が待ち受けており「石でも投げつけられるのか?」と思ったそうだが逆に歓迎される。
着任(?)して早々に新四軍との交渉に丸腰で向かう。「街から十キロ以内に(新四軍は)一兵たりとも侵入しないこと。約束を守れば当方(日本軍)からは攻撃はしないが、違反した場合は直ちに討伐する」と言うことで話をつける。新四軍からの襲撃は止まる。
その後、捕虜として八ヶ月の重労働につくことになり南京郊外の安徽省塘塗県溝中溝村へ移動。ここでは宿舎はなくホームステイ状態。日本兵と村の娘との恋愛騒動もおこる。
南京市街の清掃の任務のため移動。今度は宿舎をあてがわれ「日本徒手官兵」の腕章をつけ作業にあたる。安徽省塘塗県溝中溝村では村人から友人のように扱われ食べるものにも困らなかったが、ここでは与えられた食料はカビのはえた玄米だったりし、それを何度も洗い雑炊や粥にして弁当にしていた。見かねた南京市内の住民が白米と豚肉、野菜の煮物を弁当として支給してくれ始める。
これを見た中国憲兵から止めるよう注意がくるが「日本兵は汗水流して街を綺麗にしてくれているのだ。お前たち(中国軍)からビタ一文も貰っていないのだから文句はあるまい」と南京市民はとりあわなかったそうだ。
中国人の若者がタバコを地面に投げ、それを争って日本兵たちが拾うようなこともあったという。その時「人に物を進呈するのに、そういうやり方が中国の礼儀か」と言うと、南京の商店街のおばさんが謝り、中国人の若者を叱りつけた。それに対し礼を言うと「日本人は勤勉だ。中国が戦争に負けて当然だ。」という返事が返ってくる。』
↑要約ここまで。
中国戦線で日本軍が相手にしていたのは国民党軍で、共産党軍など物の数ではなかったことは周知だと思うが、長征などと威勢にいい表現をするが単に鍬をかついでどっかに行っていただけなのだ。著者も共産党軍と戦ったことがない、たまに見かけても共産党軍は戦いもせず逃げるばかりだったという。戦いもせず逃げ回っていただけの共産党が戦勝国面をすることを著書は歴史の歪曲であると言うし、その宣伝に乗せられる日本人を情けないと言う。
この本には同胞であるはずの中国人を信用していない中国人たちの様子が出てくる。他所から来る中国人を全く信用していないのだ。清朝以来の匪賊の伝統から続く内戦状態に嫌気がさしている。日本兵の方がよほど信用できるということだろう。そして信用していないのは一般市民だけでなく国民党の蒋介石自信が信用していないことが、上の文章からわかると思う。
私が昔、聞かされたのは日本軍がいったいだれと戦っているのかわからないという話だった。国民党軍が主なのではあるが、いたるところで日本とは関係なく戦いがあり、ある日突然対峙していた敵軍が数千人の単位で降伏してきたかと思えば、そのまま日本軍として編入されることを希望したりする。もう三国志の世界そのままだった。
著者は中国共産党や多くの日本のマスコミが語る南京事件・従軍慰安婦をでたらめだと言い切る。何しろ戦時中の陥落後の南京に二度派遣され、終戦後に警備と清掃の任にあたったのが南京なのだから、その時の様子と市民の雰囲気を見聞きした経験から言えることなのだろう。
また著者は共産中国と同様にロシアのデタラメ振りにも憤慨している。当時中国派遣軍は南支・中支・北支に分かれるが、北支の関東軍は南方のガダルカナルへ転戦していてもぬけの空の状態だった。留守部隊は現地招集の少数高齢兵隊と少年満蒙開拓団のみ。それを見たソ連軍は日ソ不可侵条約を破り侵攻しただけでなく一般人の虐殺を繰り返す。今ロシアはソビエトの虐殺・虐待・占領を知らぬそぶりである。
江沢民以降、反日を続ける共産中国。北方四島を二島返還で決着をつけようとし、日本兵のシベリア抑留をただの捕虜であるとしか認めようとしないロシア。そんな今、この著者の言葉には耳を傾けるに足りうる価値がある。
以下、メモ。
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昭和12年(1937年)12月13日南京
脇坂部隊が南京入りしたとき、既に遺棄死体が累々としていた。
昭和13年(1938年)中華民国維新政府
昭和15年(1940年)汪兆銘の国民政府
昭和16年(1941年)、17年(1942年)著者が南京ん赴く。
市民は平穏。
商店街の人々に当時(12年)のことを聞く。
南京には当時1万~1万3千人の住人が残っていた、
中国軍は10万人近くいたとの返事。
昭和39年(1964年)7月10日
日本社会党 佐々木更三 訪中団。
毛沢東は「日本軍の力は相当なもので我々は大いに助けられた。
日本軍なしに我々は権力を奪取することはできなかったであろう」
との話をした。
共産軍
延安軍:毛沢東直轄
八路軍:第二次国共合作(1937年)
紅軍が編成変えしたもの
国民革命軍第八路軍
新四軍:国民革命軍新編第四軍
八路軍、新四軍が延安軍に吸収され人民解放軍になる
慰安婦
15分~20分 で 2000円程度
楼主は日本人(沖縄)、韓国人、中国人が多かった
軍とは無関係だが、女性の病気の検査のために軍医が出向いた
慰安所は街にあるもので戦場には無い
通化事件
昭和21年(1946年)2月3日
蒋介石は共産軍に対して中央の指示があるまで日本軍の武装解除を行っては
ならないと通告していた。
中支、南支派遣軍は組織が強力であったため敗戦後も治安を維持できたが
、ソ連軍に壊滅された関東軍がいた北支では治安を維持することができず
ソ連と八路軍の進入を許し1500~2000人の日本人が虐殺された。
関東軍
北支の関東軍は南方のガダルカナルへ転戦していてもぬけの空の状態だった。
留守部隊は現地招集の少数高齢兵隊と少年満蒙開拓団のみ。
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コメント一覧
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