記事入力 : 2009/04/07 10:02:21 【コラム】彼らは戦争を待っていたのか(上) 1937年7月7日午後10時、中国・北京郊外の盧溝橋付近で演習を行っていた天津駐屯日本軍の大隊に銃弾数発が降り注いだ。「運命の1発」と呼ばれる銃弾だった。 一木清直大隊長は、銃声直後に隊員一人が行方不明になったとの報告を中隊長から受け、慌てて捜索を命じた。午後11時、真っ暗闇の中で全隊員が捜索作業を開始した。 実際には「全隊員」だった。用便のために隊列を離脱した兵士が捜索直前に復帰していたからだ。しかし、兵士が戻ったという事実は大隊長には伝わらなかった。幽霊失踪(しっそう)者を探す捜索はそのまま続いた。 午前3時半、捜索作業が4時間に及んだ時点で再び銃弾が飛来した。中国軍が撃ったという証拠はなかった。しかし、大隊長は連隊司令部に「中国の敵対行為は確実だ」と報告した。これに対し、牟田口廉也連隊長は旅団長や参謀本部の許可を得ないまま、「ちゅうちょせずに断固として戦え」と抗戦を命令した。 北京の日本軍特務も介入し、停戦協定が結ばれたが無駄だった。牟田口は「中国が協定を守るはずはない」として進撃を命令した。事態のきっかけとなった不明者捜索の錯覚は隠ぺいされた。これが日本の歴史書に記録された日中戦争の序幕、盧溝橋事件の概要だ。もちろん、中国の歴史書には「銃弾が飛来したという主張自体が日本側のでっち上げだ」と記録されている。 数年後、日中戦争は太平洋戦争につながった。用便のために離れた兵士を「行方不明者発生」と報告した少尉の錯覚、幽霊不明者を捜索していた際の銃弾数発を「中国の攻撃」と判断した大隊長の独断、報告に興奮し独断で戦闘を命じた連隊長の越権。それぞれの軽薄な行動が大戦の発端となったとの記録は信じ難いが、先日の日本の対応を観察してみる必要がある。 記事入力 : 2009/04/07 10:02:51 【コラム】彼らは戦争を待っていたのか(下) 4日午後0時16分、千葉県の航空自衛隊のレーダーに東海(日本海)を飛行する物体が探知された。その事実は航空総隊司令部、防衛省中央指揮所、首相官邸危機管理センターへと一気に伝わり、ニュース速報で「北朝鮮がミサイル発射」と報じられた。 しかし、錯覚だった。ほかの監視網は何もとらえていなかった。日本政府が発表を撤回するまで、国民は幽霊の攻撃に直面していたことになる。失敗は錯覚にとどまらなかった。判断権限がない防衛省中央指揮所の職員が「ミサイル発射」と発表する越権行為(毎日新聞報道)を行った上、「誤報は防衛省が伝えたものではない」と知らぬふりをした同省幹部の隠ぺい行為(読売新聞報道)も重なった。 もちろん、最先端の監視網のおかげで錯覚は5分後に訂正されたが、その時点で日本政府は北朝鮮のミサイルに対する破壊命令を下していた。ミサイル破壊スイッチを押す最終時限は発射後7分。万一日本が千葉県のレーダーの情報にだけ依存していたら-。日本に向かってくる幽霊があと2分レーダーに映っていたら-。あり得ない仮定ではあるが、将来の歴史書はこの日を戦争の始まりと記録したかもしれない。 「日本が北東アジアの覇権を強化するために危機を誇張した」という主張には同意しない。頭上をミサイルが飛ぶのに危機を感じない国のほうがむしろおかしい。しかし、日本の今回の動きは恐ろしいほど終始一貫して軽く見えた。自国の歴史を振り返って、大国の重みを身に付けてもらいたい。 東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員 http://www.chosunonline.com/news/20090407000025 http://www.chosunonline.com/news/20090407000026 |
>「日本が北東アジアの覇権を強化するために危機を誇張した」という主張には同意しない。
>頭上をミサイルが飛ぶのに危機を感じない国のほうがむしろおかしい。
>しかし、日本の今回の動きは恐ろしいほど終始一貫して軽く見えた。
>自国の歴史を振り返って、大国の重みを身に付けてもらいたい。
鮮于鉦(ソンウ・ジョン)記者の記事はいつものことなのだが、記事の最後の文章だけ読めば、それで言いたいことは完結しているのだ。(今回の記事では「自国の歴史を振り返って」ってところは余計だけど。)だからそれ以前の文章は全部、落語の枕みたいなものだ。
終始一貫して軽く見えたとは、何がそう見えたのだろうか?日本国民か?政府か?確かにマスコミは、はしゃぎ過ぎだったと思うが、それ以外は国民も政府もいたって冷静だったけどな。
鮮于鉦(ソンウ・ジョン)記者は日本という国が軽く見えたと言いたいのだろうが、軽かったのは鮮于鉦(ソンウ・ジョン)記者の御同業の方々だと思う。