著者は1900年、岡山県津山市生まれ。本名は斎藤敬直。家は代々漢学者の家系。早い時期に父を亡くし、母もスペイン風邪でこの世を去る。その後は長兄の庇護のもと暮らすため東京に転居。1925年日本歯科医専卒業。シンガポールで開業。33歳で俳句の道に入る。新興俳句運動に参加。1940年、京大俳句事件で検挙。1942年、神戸に転居。終戦後の数年間は関西で暮らす。終戦後、現代俳句協会を創設。自伝的小説「神戸、続神戸、俳愚伝」がある。1962年没。
昭和17年冬、東京に妻子を残したまま西東三鬼は神戸に来る。東京から逃げ出して。住み着いたのはトアロードのとあるホテル。そこには得体のしれない連中が住み着いていた。エジプト人、タタール人、朝鮮人、台湾人、白系ロシア人、そして日本人。日本人の多くはバーで働く女性たち。神戸の街が空襲で灰燼に帰すまでそのホテルには様々な境遇の人たちが入れ代わり立ち代わり止宿する。
戦中はドイツ海軍の潜水艦や艦船が神戸に来ていたようで戦火が激しくなる中、彼らは外洋に出ることもできず神戸の街で暮らすことを余儀なくされる。物資を持っているのは彼らが主。夜の街の女たち、時には普通の女性たちも彼らをあてに暮す。敵性国家と扱われていた国々の人たちも神戸に残留していた。日本人はもちろんだが彼らも皆貧乏で呑まず食わずの生活。吹き溜まり。そうかもしれない。
「そもそも私が神戸という街を好むのは、ここの市民が開放的であると同時に、他人のことに干渉しないからである」P44
同じようなことを陳舜臣も書いていたように記憶する。昔の写真を見ると田畑と鎮守の森と点在する農家、雑木が茂る原野しかない土地に、明治のころ職を求めて人が全国から集まり街ができた。解放感、しがらみのなさ。そんな街だったのだろう。だから生きていける。
この本は私小説だが別に懺悔があるわけでもなく淡々とあるがまま経験したこと、そして西東のその都度の思いが脚色なく書かれているらしい。そう本人が書いている。
ホテルが灰燼に帰す前に西東は山の手の洋館に移り住む。そこでも同様の人間模様が繰り広げられるのだが、この西東三鬼という人物、その生き様が表すとおりかなり破天荒な生活をしていたようで、東京に妻子有り、神戸では波子という女性と暮らし長崎には頼まれてもうけた子がいるという、どうにも普通じゃない。戦後は加古川にその長崎の女性、絹代を呼び寄せ家庭を持つのだが。こんな感じだから彼の周りにも、彼が放つ異臭を嗅ぎ付けて色んな人間が集まってきたのだろう。
(2020年4月 私物)