2008年8月の話。この前書いた「棚田」と合わせて読んでいただければ幸いです。
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鶴田と書いて「たずた」と読む。岡山県にある地名だ。ポイントで示せといわれれば岡山県を北から南に流れる旭川の中流域になる。中国地方に長く連なる吉備高原の一角で、西側は旭川が刻む急峻な渓谷。その渓谷から北東に広がる標高四百メートル前後の高原状の土地が現在の岡山市建部町鶴田になる。
ただ今回ここで書く鶴田は戦前の行政区域である岡山県久米郡鶴田村。現在の岡山市建部町鶴田は旭川東岸の狭い範囲を指すが、戦前の鶴田村はもっと広大な地域だった。戦後繰り返された町村合併や地名変更で鶴田村は分割され鶴田の名前はごく一部の地域にしか残らなかった。その消えてしまった鶴田村の一部である現在は岡山市建部町和田南、岡山市建部町角石畝と呼ばれる所へ8月16日に行ってきた。
鶴田村は私の母親の疎開先だった。母親の疎開は終戦の8月を挟んで5ヶ月という短い間だったがとても楽しかったという話を今年も聞いた。何度も疎開先の話は聞いていたのだが私は行った事がない。盆の行事も済んだ。時間はある。暇ついでに父母を誘ってみたら、行っても良いという話になった。
街育ちの母親が疎開先で楽しかったという言い分は、よく耳にする他の人たちの疎開の話からすると珍しいような気もするが、疎開先が母親の母親、つまり私の祖母の実家ということもあったのだろうし、何より受け入れてくれたご家族と村の方々によるところが大きかったに違いない。
JR津山線福渡駅から国道53号線を津山に向かって北上。途中で53号線から別れて県道30号線を旭川にそって数キロ進む。鶴田郵便局の所で旭川から別れ県道70号線に乗り北上。このまま県道70号線を進むと津山の院庄あたりへ出てしまうようだが、1kmほど進んだところで左に折れ県道451号線に乗り高城山の頂上を目指す。左に滝のような谷川。何度も折り返しを繰り返しながら進む。一気に標高が上がる。道はどこまで行っても綺麗に舗装されているが車と車の対向は難しい。幸いにというか一台も対向車は無し。
昔、母親が疎開時代に使っていた道はこの県道451号線とは別だそうで、もう少し県道70号線を進んだところから山に上がる道があったというが、頂上付近にある集落から麓の学校に通うため標高差200mを子供の足で毎日のぼり降りしていたのかと思うと・・・ご苦労の一言に尽きる。60年ほど前のことなのだが勉学に対する人の気持ちが今とは違った時代の話。
県道451号線に乗って2kmほどを車で駆け上がると突然視界が開ける。集落が見えてくる。和田南という土地だ。平面の地形に慣れてしまった目からこの土地の地形をどう説明すれば良いのか。立体的な土地使いをしていると書いても想像しづらいか。平らな土地なんてほとんど無くて、傾斜地に家々が点在する。水田は棚田。思いのほか水田が多い。吉備高原に上がってしまっているため、かえって山は低く感じる。道はどこまでもくねくねと尾根を回りながら続き、同じような風景が延々とつながる。
山を登りきって真っ先に見えてきた民家は昔は商店だったという。確かに今でも店の面影がある。母親が真面目にこのあたりが一番繁華な場所だという。なるほど・・・。初めて見る祖母の実家の下を通る。何も用意してこなかったわけではないが、突然の思いつきということもあり、挨拶もせず失礼する。
正直なんでこのような土地に集落があるのかと思ってしまうが歴史は古い。遠く平安時代以前から続く土地柄なのだ。今でこそ大規模な治水で川沿いや谷に人が住むようになったが、その歴史は浅い。長く人は川から離れた高地に住む時代が続いた。岡山の新見には奈良東大寺の荘園があったが、都からそこに続く道はほとんどが山を行く山岳道路だった。この地もそんな時代から人が住み続けたのだろう。道の辻に建つ石造りの道標が古く感じてしまう。
添付した写真はこの地方(垪和郷)の二の宮にあたる和田神社の参道。角石畝というところにある。境内から参道入り口を見下ろしながら撮った。社殿は立派な拝殿を持つ豪壮な造りでここの土地の方々の思い入れを感じることができるものなのだが、この土地の歴史の古さ、そして神社ができあがった往時の雰囲気を感じるにはこの参道の風景の方が良い。写真を撮った時は方角が分からなかったのだが、後から調べたら境内から見て真南にあたる方角だった。
和田神社の歴史は古く堀河天皇の御宇山城国男山八幡宮の分霊を垪和(はが)大山に大山八幡宮として祀っていたものから始まるとあるから11世紀か12世紀にはこの地にあったことになる。現在の社地には文永四年(1267年)移された。
和田神社を出た後、延々と続く道をずっと遠くまで行ってみたい気持ちになったのだが、この日はこの地にある竹内流古武道の道場を見学して帰途についた。
インターネットで「鶴田」「たずた」を検索すると島根の浜田藩の飛領地である作州久米北条郡の話がでてくる。廃藩置県の直前には鶴田(たずた)藩が出来上がったともあるが、鶴田村と鶴田藩がどう重なるのかは分からなかった。幕末の時期に鶴田(たずた)藩屋敷が設けられた場所は、現在の鶴田から県道70号線を15kmほど北上し国道429号線に乗り換え4kmほど西に行ったあたりにあったようだ。かつては文化的にも行政的にも作州であった鶴田の地は、年月を経てその多くの地を行政的に備前の国に取り込まれ、来年の2009年4月からは岡山市北区建部町にまた地名を変える。
鶴田と書いて「たずた」と読む。岡山県にある地名だ。ポイントで示せといわれれば岡山県を北から南に流れる旭川の中流域になる。中国地方に長く連なる吉備高原の一角で、西側は旭川が刻む急峻な渓谷。その渓谷から北東に広がる標高四百メートル前後の高原状の土地が現在の岡山市建部町鶴田になる。
ただ今回ここで書く鶴田は戦前の行政区域である岡山県久米郡鶴田村。現在の岡山市建部町鶴田は旭川東岸の狭い範囲を指すが、戦前の鶴田村はもっと広大な地域だった。戦後繰り返された町村合併や地名変更で鶴田村は分割され鶴田の名前はごく一部の地域にしか残らなかった。その消えてしまった鶴田村の一部である現在は岡山市建部町和田南、岡山市建部町角石畝と呼ばれる所へ8月16日に行ってきた。
鶴田村は私の母親の疎開先だった。母親の疎開は終戦の8月を挟んで5ヶ月という短い間だったがとても楽しかったという話を今年も聞いた。何度も疎開先の話は聞いていたのだが私は行った事がない。盆の行事も済んだ。時間はある。暇ついでに父母を誘ってみたら、行っても良いという話になった。
街育ちの母親が疎開先で楽しかったという言い分は、よく耳にする他の人たちの疎開の話からすると珍しいような気もするが、疎開先が母親の母親、つまり私の祖母の実家ということもあったのだろうし、何より受け入れてくれたご家族と村の方々によるところが大きかったに違いない。
JR津山線福渡駅から国道53号線を津山に向かって北上。途中で53号線から別れて県道30号線を旭川にそって数キロ進む。鶴田郵便局の所で旭川から別れ県道70号線に乗り北上。このまま県道70号線を進むと津山の院庄あたりへ出てしまうようだが、1kmほど進んだところで左に折れ県道451号線に乗り高城山の頂上を目指す。左に滝のような谷川。何度も折り返しを繰り返しながら進む。一気に標高が上がる。道はどこまで行っても綺麗に舗装されているが車と車の対向は難しい。幸いにというか一台も対向車は無し。
昔、母親が疎開時代に使っていた道はこの県道451号線とは別だそうで、もう少し県道70号線を進んだところから山に上がる道があったというが、頂上付近にある集落から麓の学校に通うため標高差200mを子供の足で毎日のぼり降りしていたのかと思うと・・・ご苦労の一言に尽きる。60年ほど前のことなのだが勉学に対する人の気持ちが今とは違った時代の話。
県道451号線に乗って2kmほどを車で駆け上がると突然視界が開ける。集落が見えてくる。和田南という土地だ。平面の地形に慣れてしまった目からこの土地の地形をどう説明すれば良いのか。立体的な土地使いをしていると書いても想像しづらいか。平らな土地なんてほとんど無くて、傾斜地に家々が点在する。水田は棚田。思いのほか水田が多い。吉備高原に上がってしまっているため、かえって山は低く感じる。道はどこまでもくねくねと尾根を回りながら続き、同じような風景が延々とつながる。
山を登りきって真っ先に見えてきた民家は昔は商店だったという。確かに今でも店の面影がある。母親が真面目にこのあたりが一番繁華な場所だという。なるほど・・・。初めて見る祖母の実家の下を通る。何も用意してこなかったわけではないが、突然の思いつきということもあり、挨拶もせず失礼する。
正直なんでこのような土地に集落があるのかと思ってしまうが歴史は古い。遠く平安時代以前から続く土地柄なのだ。今でこそ大規模な治水で川沿いや谷に人が住むようになったが、その歴史は浅い。長く人は川から離れた高地に住む時代が続いた。岡山の新見には奈良東大寺の荘園があったが、都からそこに続く道はほとんどが山を行く山岳道路だった。この地もそんな時代から人が住み続けたのだろう。道の辻に建つ石造りの道標が古く感じてしまう。
添付した写真はこの地方(垪和郷)の二の宮にあたる和田神社の参道。角石畝というところにある。境内から参道入り口を見下ろしながら撮った。社殿は立派な拝殿を持つ豪壮な造りでここの土地の方々の思い入れを感じることができるものなのだが、この土地の歴史の古さ、そして神社ができあがった往時の雰囲気を感じるにはこの参道の風景の方が良い。写真を撮った時は方角が分からなかったのだが、後から調べたら境内から見て真南にあたる方角だった。
和田神社の歴史は古く堀河天皇の御宇山城国男山八幡宮の分霊を垪和(はが)大山に大山八幡宮として祀っていたものから始まるとあるから11世紀か12世紀にはこの地にあったことになる。現在の社地には文永四年(1267年)移された。
和田神社を出た後、延々と続く道をずっと遠くまで行ってみたい気持ちになったのだが、この日はこの地にある竹内流古武道の道場を見学して帰途についた。
インターネットで「鶴田」「たずた」を検索すると島根の浜田藩の飛領地である作州久米北条郡の話がでてくる。廃藩置県の直前には鶴田(たずた)藩が出来上がったともあるが、鶴田村と鶴田藩がどう重なるのかは分からなかった。幕末の時期に鶴田(たずた)藩屋敷が設けられた場所は、現在の鶴田から県道70号線を15kmほど北上し国道429号線に乗り換え4kmほど西に行ったあたりにあったようだ。かつては文化的にも行政的にも作州であった鶴田の地は、年月を経てその多くの地を行政的に備前の国に取り込まれ、来年の2009年4月からは岡山市北区建部町にまた地名を変える。