東京でカラヴァッジョ 日記

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「サラ・ベルナールの世界展」(渋谷区立松濤美術館)

2019年12月23日 | 展覧会(その他)
パリ世紀末ベル・エポックに咲いた華
サラ・ベルナールの世界展
2019年12月7日〜20年1月31日
渋谷区立松濤美術館
 
 
 
   高崎、堺、箱根、いわき、横須賀と巡回し、6つめ(最後?)の巡回先・渋谷にやってきた「サラ・ベルナールの世界展」を見に行く。
 
 
   サラ・ベルナールといえば、ミュシャ(ムハ)の画業を語るうえで絶対に欠かされることがない、フランスの「ベル・エポック」の時代を象徴する大女優。ミュシャが大女優のポスターを初めて制作したのは、1894年の年末、大女優が50歳頃のこと。
 
   本展では、大女優を「ミューズ」と崇めた写真家たちによる写真や画家たちによる肖像画、舞台衣装や装飾品のほか、大女優との仕事を機にブレイクしたミュシャやラリックの作品などにより、大女優の人生を通覧する。
 
   以下、本展の展示室内の解説パネルを参考に、大女優の生涯を記載する。
 
 
1844年
   サラ・ベルナール誕生。母は、オランダ生まれでパリで高級娼婦となったユダヤ系の女性。父親の素性は知られていない。異父妹が2人いる。
   なお、大女優の生年については異説もある(1840年など)。パリ・コミューン時に公文書館が破壊されたこともあって特定できないようである。
 
 
1864年
   20歳頃、未婚で息子モーリスを生む。
   
 
1874年
   異母妹が死去。
 
 
「白い衣装で自彫像とともに写る彫刻家としてのサラ・ベルナール」1875年頃
 
 
 
1876年
   母が死去。
 
 
サラ・ベルナール作
「キメラとしてのサラ・ベルナール」
1880年頃
 
 
 
1882年
    38歳頃、10歳超年下のギリシャ人俳優ジャック・ダマラと結婚する。
 
 
1884年
   もう1人の異母妹が死去。
 
 
1887年
   息子モーリスが結婚する。相手はポーランド貴族の娘。
   息子は、賭博好きで常に借金を抱えていたらしい。大女優は、その返済と自らの豪奢な生活維持のため、常に金欠であったようである。
 
 
1889年
   夫ダマラがモルヒネ中毒で死去。格差婚への悩みが中毒の背景にあるとも言われている。
   なお、恋多き女として恋人がいない時期はないとされた大女優、本展では恋人であった者のプロマイド13人分(最後の恋人は37歳ほど年下の筋肉俳優)が展示されているが、正式に結婚したのはダマラ1人である。
 
 
1889年
   最初の孫娘が誕生。
 
 
「自宅でのサラ・ベルナール」1890年
 
 
 
1894年
   舞台「ジスモンダ」で、ミュシャにポスター制作を初依頼する。
 
 
1895年
   2番目の孫娘が誕生。
 
 
「棺桶の中でポーズするサラ・ベルナール」
 
 
 
1915年
   70歳頃、右脚を切断する。
   1905年の舞台での事故で傷めた右膝が徐々に悪化して、ついに壊疽を起こしたようだ。
   その後も舞台に出続ける。
 
 
1923年
   パリで、息子が見守るなか死去。享年78歳(推定)。
 
 
 
   大女優としての経歴は割愛したが、晩年まで60年もの間、フランスにとどまらず欧米で国際的なスターとして活躍。自らの一座を立ち上げ劇場経営にも携わる。アーティストとして彫刻作品を制作する。奇行の逸話にも事欠かない。大女優伝説の原型。
 


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