松方コレクション展
2019年6月11日〜9月23日
国立西洋美術館
本日9/23が会期最終日となる松方コレクション展。
その入場者数は、9月13日に40万人を突破したという。国立西洋美術館では2013年のラファエロ展(50.5万人)以来となる40万人台達成である。残り会期は10日間で、45万人は確実、50万人にどこまで近づくことができるか注目である。
➡︎ (追記)472,130人とのこと。
本展は、第1〜6章まで松方コレクションの形成について取り扱い、第7章「第二次世界大戦と松方コレクション」およびエピローグは、フランスに残された松方コレクションの流転について取り扱っている。
コレクション形成の約10年間を149点で語る一方で、フランスに残されたコレクション流転の約90年間を僅か7点で語る。1点1点の役割が重い。
No.150
マティス
《長椅子に座る女》
1920-21年、バーゼル美術館
フランスに残された松方コレクション。その後見人であったのが、日置釭三郎。
松方は日置に定期的に管理費を送金することを約束し現に実行していたが、戦争が始まって為替管理が厳しくなり、やがて送金が途絶する。
日置は、経費捻出のため、松方の許可を得たうえで作品を売却する。そのうちの1点が本作である。1940年頃に売却。
何度か所有者が変わったのち、1960年より現所有者。
特別出品
マネ
《嵐の海》
1873年、ベルン美術館
上述作品と同じく、日置が経費捻出のため売却した作品。1941年頃に売却。
その後の来歴が凄い。
何度か所有者が変わったのち、1953年にヒルデブランド・グルリットの所有となる。2012年、息子のコーネリウス・グルリットのミュンヘンのアパートで、ナチス略奪美術品とともに発見される。2014年、コーネリウス死去、遺言によりベルン美術館へ遺贈される。
No.151
アングル
《男の頭部(《ホメロス礼賛》のための習作)》
1827年頃、ポーラ美術館
1944年、フランス政府は、パリの松方コレクションを接収する。
1947年、国有財産局は、経費捻出のため、コレクションのうち21点をパリで売立にかける。そのうちの1点が本作である。
その後、おそらく何度か所有者が変わったのち、現所蔵者に。
No.152
藤田嗣治
《自画像》
1926年、国立西洋美術館
パリの松方コレクションの日本への寄贈返還交渉が始まる。
交渉が始まった1953年8月、日置は、フランス外務省に対して、給付金支給および方コレクションに混じる日置個人所有の絵10点の返還を要求する。そのうちの1点が本作である。
1954年9月、日置と日本政府は、コレクションの権利放棄の条件のもとに5年間の給付金支給(当初要求額の10分の1)で合意する。
1959年、寄贈返還され、国立西洋美術館所蔵となる。
No.153
スーティン
《ページ・ボーイ》
1925年、ポンピドゥーセンター
上述作品と同じく、日置が日置個人所有の絵として返還を要求した作品10点のうちの1点である。
日置と日本政府は、コレクションの権利放棄の条件のもとに5年間の給付金支給で合意する。
しかしながら、本作品は寄贈返還の対象とはならず、特別に重要な作品としてフランスに残すこととされた19点のうちの1点となる。
No.154
ルノワール
《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》
1872年、国立西洋美術館
寄贈返還交渉のなかで、フランス残留候補の一つであった作品。日本の粘り強い交渉もあり、残留候補から外れて寄贈返還の対象となり、国立西洋美術館所蔵となる。
その後は、国立西洋美サイトによると、基本的に上野にいるものの、ごくたまに外部に貸し出されることもある。直近では1996年東近美、1989年神戸に行っている(現時点では20年以上貸し出されていないということか)。海外貸し出しについては、1985年のロンドン・パリと、1979年の旧ソ連の計2回の経験があるようだ。
No.155
モネ
《睡蓮、柳の反映》
1916年、国立西洋美術館
松方が1921年にモネのアトリエから直接購入した作品の一つ。
第二次大戦中に日置がコレクションを疎開させる過程で大きく損傷する。破損作品として、返還作品リストから漏れ、そのまま忘れ去られる。
2016年にルーヴル美術館の収蔵庫にて再発見。松方家からの寄贈という形で、2017年12月に国立西洋美術館の所蔵となる。
上半分が欠損した痛々しい姿。
想像する。
もし、第二次世界大戦が勃発しなかったとしたら。一部作品に大きな損傷を与えることとなるコレクションの疎開の必要もなく、フランス政府に敵国人資産として接収される事態になることもなかったとしたら。
パリの松方コレクションは今どうなっていたであろうか。