東京でカラヴァッジョ 日記

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スイス使節団が見た幕末の日本(横浜開港資料館)

2014年08月28日 | 展覧会(その他)

通商条約締結150周年記念 スイス使節団が見た幕末の日本
カスパー・ブレンワルド日記を中心に
2014年7月16日~10月19日
横浜開港資料館


 横浜開港資料館には、旧館と新館がある。
 旧館は、1931年に英国総領事館として建てられ、1972年まで使われていた。通常時は、1階中央の記念ホールのみ見学できる。
 新館は、常設展示用が2室、企画展示用が1室と計3つの展示室がある。各室こじんまりとしている。
 敷地は、かつて日米和親条約が結ばれた土地。
 入館料は一般200円。
 最寄り駅は、みなとみらい線の日本大通り駅。

【展覧会HPより】
 日本とスイスが通商条約を締結したのは文久3年12月29日(1864年2月6日)で、スイスは日本と通商条約を結んだ8番目の国になった。当時のスイスは、工業製品を輸出するとともに、日本の産物を日本商人と取引したいと考えていた。しかし、スイス使節団が到着した時の日本は攘夷の嵐が吹き荒れ、条約を結ぶことは容易なことではなかった。このため、使節団はねばり強く交渉を繰り返した。
 展示では、使節団の一員として来日したカスパー・ブレンワルドが記した日記を題材に、条約締結交渉の様子や日本の政治情勢を紹介する。現在、日記はスイスのDKSH社が所蔵しているが、約50年ぶりに日本で公開される。


【構成】
 展示品は、関連写真・資料(ただし複写がメイン)。

導入部
ヌーシャテル民族誌博物館に残された写真、アンベール著『幕末日本図絵』から

1:スイス使節団の到着
 1863年、アンベールを団長とする使節団の一員として、当時24歳のカスパー・ブレンワルド(1838年生)が来日。
 その前、1859年、リンダウを団長とする使節団は、交渉不調に終わっている。(なお、リンダウはプロシア人であり、後年、領事館用地問題でスイス・プロシア間の争議を起こす。)
 団長アンベールは、後年『幕末日本図絵』を刊行。彼が日本で収集した写真については、現所蔵者であるスイス・ヌーシャテル民族誌博物館が東京大学史料編纂所古写真研究プロジェクトと共同研究を行っており、本展では両施設から提供された画像を展示。

2:オランダとスイス
 スイスはオランダと協定を結び、日本との交渉を仲介してもらう。

3:日本の政治情勢
 生麦事件、薩英戦争など

4:スイス使節団が見た日本
 横浜・江戸の往復と江戸市中見学のほか、鎌倉、八王子、厚木、江ノ島なども観光。
(なお、ブレンワルドは、5人の武士の護衛付きで、富士登山も敢行。)

5:使節団の贈り物と展覧会
 目立つ献上品としては、消防ポンプ、ライフル、スイスの写真など。
 横浜で、製品(触発引き金ライフルを含む)・手工芸品の展覧会を開催。(結果として、ライフルのスイスからの売込みは成功しなかった。)
 横浜で、消防ポンプの放水実験を実施。

6:通商条約の締結とスイス系商社の活躍
 契約締結後、スイス系商社が誕生、活動する。

7:DKSHジャパン株式会社の歴史
 1865年、ブレンワルドは知人とシイベル・ブレンワルド商会を設立。生糸輸出を主。
 1899年、ブレンワルド没。以後、シイベル・ウォルフ商会、シイベル・ヘグナー商会と名称が変わり、DKSHジャパンがシイベル・ヘグナー商会の事業を継承。


【カスパー・ブレンワルドの日記】
 スイス出発時から横浜で商売していた1878年まで15年間に及ぶ5冊の日記を残す。 
 横浜開港資料館では、所蔵者であるDKSH社の協力を得て日記の複製を入手し、翻訳作業を実施中。
 本展では、5冊のうち1冊が公開されている(←気がつかなかった)。


 横浜の歴史を紹介する観点の企画展示、横浜とは縁のない人生を送っている私には、よそ者が紛れ込んでしまった感も多少。




 資料館から徒歩3分、シイベル・ヘグナー商会跡地であるビルの入口には、エンブレム・ストーンが。
 1923年の関東大震災で埋もれ、その50年後に再発見されたとのこと。
 西暦1902年と区画番号No.89.Aが浮き彫りされている。



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