東京でカラヴァッジョ 日記

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「歿後60年 椿貞雄」展(千葉市美術館)

2017年06月17日 | 展覧会(日本美術)

歿後60年 椿貞雄
師・劉生、そして家族とともに
2017年6月7日~7月30日
千葉市美術館

 

   椿貞雄と聞いて、思い浮かべる作品。

《髪すき図》
1931年 
東京国立近代美術館

 

   椿貞雄については、この作品を描いた人、以外のことは知らず、こんな感じの作品が相応数並んでいるのかなあと想像していたが違った。本展を見る限り、本作は異例的な作品のようだ。

 


第1章   出会い


   初期の自画像、弟や妹・知人の肖像画、風景画が並ぶ。岸田劉生派というか、岸田劉生の追随者というか、岸田劉生の作品と瓜二つである。劉生の自画像、肖像画、風景画もあわせて並んでいて、椿の見事なほどの追随ぶりが分かる。劉生の風景画と同じ場所を同じ風に描いた風景画まである。

 

   1896年山形県米沢市生まれの椿は、1914年、画家を志し、地元の旧制中学を退学し、9月に上京する。


   偶然に観た岸田劉生(1891-1929)の東京・京橋での個展に圧倒され、面会を求める手紙を出し、受け入れられ、師事するようになる。椿の下宿と劉生の自宅が偶然近かったらしいが、その後劉生が藤沢の鵠沼に引っ越すと、椿も同様に引っ越すほどの傾倒ぶり。


   劉生の椿に贈った自画像、椿を描いた肖像画、古屋を描いた肖像画。
   椿の自画像、弟・茂雄の肖像画、妹・八重子の肖像画。
   北方ルネサンス風の肖像画群。

   劉生の重文《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年、東近美蔵、本展非出品)風の風景画。

 


第2章   伝統へのまなざしと劉生の死


   劉生が娘を描いた麗子像に対して、椿も同様に姪を描く。菊子像である。


   劉生が東洋的写実に対して関心を持つと、椿も追随し、日本画(墨彩画)の制作も行うようになる。二人が制作した文人画も並ぶ。
   初期浮世絵にも関心を持つ。その一環として冒頭に挙げた《髪すき図》が制作される。髪をすく浴衣の女性は妻をモデルとしたという。

 

   1929年、劉生が38歳で急逝する。
   椿はしばらくは追悼展に忙殺される日々を送るが、一段落すると、制作が行き詰まるようになる。見兼ねた周りの勧めもあり、1932年、半年ほどヨーロッパに行く。パリに滞在し、イタリア・オランダ・スペインを旅する。パリでは個展も開催したらしい。日本人専門モデルであったというアンドレ像など、現地で描いた作品も並ぶ。


   椿が後年に語ったという言葉。


   イタリアに行って最初に見たのは、ダ・ヴィンチの作品であったが、その前に立ったとき、驚愕のあまり、頭髪が総毛立って、一瞬にして白髪になる思いがした。


   イタリアで驚愕したというダ・ヴィンチの作品とは一体何なのか?
   ダ・ヴィンチをイタリアで見る前に、ルーヴルで見てなかったのか?


   語った人か聞いたという人が話を作っている感。

 


第3章   静物画の展開


   本章の最初は、劉生と椿の静物画が並ぶ。見事な追随ぶりである。そして劉生が亡くなって以降晩年までの静物画が続く。この章、劉生の静物画3点、椿の静物画40点強。「劉生が構想した日本における油彩画表現を受け継ぎ、独自の画境に到達しました」。「独自の画境」とは、これら静物画に対してのことだろうなあ。

 


第4章   家族とともに


   母親、妻、息子、娘の肖像画。千葉ほか日本各地の風景画。孫の肖像画。


   椿の後年は、「愛情の画家」、「千葉ゆかりの画家」(1927年から亡くなるまで船橋市に在住)。本章はよくある地元ゆかりの画家を取り上げた個展のようである。

 


 

   当時から批判があって椿本人も悩んでいたという、劉生も劉生風の理屈で擁護したという、劉生作品との瓜二つぶりを興味深く観る。



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