14世紀イタリア。
「プラートの商人」フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニの生涯とそのペスト体験を確認する。
1335年(0歳)
プラートにて、小売業を営む両親の第1子として誕生する。
(後に、弟2人、妹1人が誕生する。)
14世紀イタリア。13世紀の「温暖で、作物に恵まれ、飢餓が減少し、農業・商業が活性化した」時代とは打って変わって、「小氷期による寒冷化・気候の悪化に伴う凶作・飢餓の頻発」、「疫病・家畜伝染病の発生」、「百年戦争」などの戦争・政争とそれに伴う経済危機。
そして、そこに加わるのは・・・。
1348年(13歳、プラート)
ペスト大流行。
トスカーナでは人口の半分強が命を奪われたとされる。
6人家族であったダティーニは、父、母(妊娠中)、弟、妹の4人を失う。
孤児となり、養母に預けられる。
1349年(14歳)
フィレンツェで就職する。
1350年(15歳)
一旗揚げるべく、教皇庁のあるアヴィニョンに移る。
1358年(23歳)
独立し、商事会社を起こす。
弟を呼び寄せる。
その後、事業は成功し、その規模を拡大させていく。
1361年(26歳、アヴィニョン)
2度目のペスト大流行。
特に、最初のペスト以後に生まれた子どもたちが数多く命を奪われ、「子どものペスト」と呼ばれる。
(ダティーニへの影響は不明。)
1374年(39歳、アヴィニョン)
3度目のペスト大流行。
ダティーニは遂にペストに罹患する。
生死をさまよい、なんとか一命を取り留める。
1376年(41歳)
結婚。
相手は、アヴィニョンに住む貧しいフィレンツェ人貴族の娘で、20歳近く年下。
(この二人は結果として子どもには恵まれず。)
1377年(42歳)
教皇がローマに帰還する。
(翌1378年〜1417年は、ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立つ「大シスマ」時代となる。)
1383年(48歳)
アヴィニョンを離れ、故郷プラートに戻り、事業の拠点を置く。
1384年(49歳、プラート)
4度目のペスト大流行。
義兄の息子が亡くなる。
1390年(55歳、プラート)
5度目のペスト大流行。
ピストイアに1年間避難する。
1392年(57歳)
奴隷の女性との間に庶子の娘をもうける。
1394年(59歳)
事業の拠点をフィレンツェに移す。フィレンツェの市民権を得る。
1399年(64歳)
イタリア北中部での歴史的な大ムーブメント「ビアンキの改悛巡礼」にフィレンツェ団の一員として参加する。
Cola di Pietro da Camerino
《Processione dei Bianchi》
1401年
Chiesa di Santa Maria Assunta, Vallo di Nera(Perugia)
北イタリアに住む貧しい一人の農民が聖母マリアから受けたお告げにしたがって、白の麻の服を着て、朱色の十字架印をつけて、近隣地域の教会を9日間、毎日少なくとも3つ、の巡礼を行う。
しかし・・・。
1400年(65歳、フィレンツェ)
6度目のペスト大流行。
最初の1348年の大流行に次ぎ、2度目の1361年の大流行と並んで多くの死者が出たとされる。
ボローニャに1年間避難する。
1401年(66歳)
ボローニャからプラートに戻る。
第一線での事業活動から退く。
1410年(75歳)
ダティーニは、1348年(13歳)以降、約10年周期でやってくる計6回の大規模ペストを何とか生き延び、商人として大成功し、75歳で故郷プラートで死去する。
その莫大な遺産は、その一部がフィレンツェのインノチェンティ捨子養育院の建築資金の一部に充てられ、残る全財産はプラートの貧民救済基金として「フランチェスコ・ディ・マルコの貧民の財団」に遺贈される。
1870年
ダティーニが残した15万通にも及ぶ書簡がプラートにて発見される。
14世紀後半の商人の経済活動や日常生活における市民のものの見方・感じ方を伝える貴重な文書とのことである。
(イリス・オリーゴ『プラートの商人-中世イタリアの日常生活』が名著として知られる。邦訳は白水社刊。)
ダティーニの時代のペストと絵画を扱った本としては、ミラード・ミースの「ペスト後のイタリア絵画」(邦訳中森義宗、中央大学出版部)が有名ですが、あまり馴染みのない画家の絵が大量に出てきたり、文章がやや難解だったりで、読んでいて眠くなったことを覚えています。
フィレンツェとその周辺での年代記としては、ダティーニ以前の時代を扱ったものとして、ヴィラーニの「中世イタリア商人の世界」(清水廣一郎、平凡社ライブラリー)があり、ダティーニ以降では「ランドゥッチの日記」(邦訳中森義宗他、近藤出版)があります。「中世イタリア商人の世界」は年代記そのものの記載ではなく、著名な中世イタリア史研究者による著作で、ペストについての記載もあります。「ランドゥッチの日記」の方は以前このブログでもコメント投稿し、話題にしたことがありますが、ミケランジェロのダヴィデ像設置のエピソードやサヴォナローラの台頭・処刑などが生き生きと描かれていて、ペストについての記載も所々に見られます。
ヴィラーニ、ダティーニ、ランドゥッチと3人の年代記を並べると、ヴィラーニが1300年頃から1348年(ペストによる死!)まで、ダティーニがこれに少しダブって1410年まで、ランドゥッチは少し間が空いて1450年から1542年まで(但し1516年以降はランドゥッチの死亡のため息子による執筆。死因は不明、多分老衰)。このように200年以上に及ぶフィレンツェ周辺の出来事(それはジオットからミケランジェロぐらいまでのルネサンス美術の時代に相当)を当時の人の肉声として読むことができるので、どれも貴重な記録だと思います。
現在も疫病による外出自粛中ということで、ギルランダイオとペルジーノ(ともにペストで死亡)の死亡当時のフィレンツェ周辺がどんな状況だったか、ランドゥッチの日記を確認してみたのですが、ギルランダイオの死亡日(1494.1.11)の日記はサヴォナローラの説教やピエロ・デ・メディチの復帰に関する記載のみ、ペルジーノの死亡日(1523.2、但しペルージア近郊で死亡)の前後は記載なし、という状況でした。フィレンツェ市民にとっては画家の死亡など興味がなかった、というよりもペストで人が死ぬことなど日常茶飯事であり、政治や軍事・外交の方がよっぽど関心事だったのだろうと感じました。なお、ギルランダイオに関しては、ランドゥッチの日記には1490.12.22の記事でSMノヴェラ教会の壁画完成のことが作者ギルランダイオの名前、金貨1000フィオリーニの費用とともに記載されています。
(追記:前回のコメントでSCALA社版Peruginoについてお聞きしたいことがあると書きました。これはデルータの絵ではなく、チェルクェートの聖セバスティアヌスの絵の銘文に関することですが、別ルートの情報で確認できました。また、アマゾンにはドイツ語版しかなかったので、今後はPeruginoとPinturicchioの英語版をさがしてみようと思っています。)
コメントありがとうございます。
石鍋真澄氏については、新刊の「教皇たちのローマ」は読み終わりましたが、「フィレンツェの世紀」は未読です。フィレンツェのペストのことも書かれているとのことですので、近々読むつもりです。
「ペスト後のイタリア絵画」も持ってはいますが、文章は読みづらいし、正誤表の掲載数も多いし、で挫折したままです。
清水廣一郎氏の「中世イタリア商人の世界」は昔読みました。面白かった印象が残っています。
「ランドゥッチの日記」は、そのうちに、これを元に15世紀後半イタリアのペスト状況をブログ記事にしたいと考えています。
Peruginoの件、解決したとのことでよかったです。ドイツ語版を持っていてもお役に立てそうもありません。
https://repre.org/repre/vol19/note/02/
両方読んで参考になることも多かったのですが、脚注に同じ京都大学の岡田温司氏の「ミメーシスを超えて」が出ていたのが良かったと思っています。この本はカラヴァッジョの「聖トマスの不信」の部分については何度も繰り返し読んでいたのですが、他の部分のことは全く忘れていたので、この機会に第3章ペストと美術の部分を読み直してみました。内容は上記投稿にも書いたミラード・ミースの「ペスト後のイタリア絵画」について、その後に出されたロベルト・ロンギやゴンブリッチらによる批判と岡田氏の考えを述べたものですが、あの難解なミラード・ミースの著書を読む前にこれを読んでいたら、もう少し理解できたのではないか(少なくとも読んでいて眠くはならなかった?)と思いました。(今さら読み直す気はありませんが)
そして、私が岡田氏の論で特に興味を引いた部分は、①ペストだけが大惨事ではなく、他のカタストロフの中の一つに過ぎない。ペストは繰り返されることや長期的持続が重要、②ペストによる人口の激減は、所有者や相続人を失った財産の教会や信心会への遺贈を促し、例えばフィレンツェのオルサン・ミケーレはこれにより潤ったので、建築家や芸術家に多くの仕事をもたらした、というところです。
コロナ騒動により、私もペストや聖セバスティアヌス、聖ロクスのことなどをいろいろ調べています。図書館が使えないので、当面は手持ちの資料を見るしかないのですが、何年も見ていなかったものを見直すよい機会となっています。
石鍋先生の「教皇たちのローマ」は発売後1カ月以上過ぎてから知りました。近くの書店に行ったのですが置いていなくて、外出自粛解除後に大手書店に買いに行くか、図書館が開いたら借りるかと思っています。
岡田温司氏の『ミメーシスを超えて』。「ペストと美術」の章はもちろんのこと、他の章も非常に気になります。図書館が開けば、確認したいと思います。
いろいろと書籍・文献などの情報提供ありがとうございます。
ヴィラーニが同じ1348年のペストによる死、画家では15世紀末から16世紀初めにギルランダイオとペルジーノがペストで死亡ということで、ちょっと調べただけでも馴染みのある人が何人もペストの犠牲になっていて、詳しく調べるともっといるかもしれません。なお、上記石鍋氏の本では、ミラード・ミースの「ペスト後のイタリア絵画」について、「残念ながらこの翻訳には誤訳が少なくない」と書かれていました。
コメントありがとうございます。
石鍋真澄氏の「聖母の都市シエナ」について特に印象に残ること。
一つが、後書きにある、長女に「しえな」と名付けたという話。
もう一つが、むろさん様がおっしゃった『ペスト後のイタリア絵画』に対する「誤訳が少なくない」とのコメント。正誤表の項目が少なくないし、誤訳も少なくないらしいし、で挫折しました。まずはご紹介いただいた岡田温司氏の書籍を確認したいと思います。
それは専門誌「美学」205号(2001.6.30)に掲載された千野香織氏の3ページの書評です。
上記コメントで、ミラード・ミースの「ペスト後のイタリア絵画」について、岡田氏の「ミメーシス~」を先に読んでいたら、ミラード・ミースの著書をもう少し理解できたのではないかと書きましたが、まさにこれと同じことでこの美学の書評を先に読んでいたら、「ミメーシス~」ももっとよく理解できただろうと感じました。
「ミメーシスを超えて」も同じように非常に難解な本です。(カラヴァッジョの聖トマスの不信の章を何度も読み返したのもそのためです。3~4年前にポツダムのサンスーシ宮殿へこの絵を見に行きましたが、先にこの本を読んでいたか、帰ってきてから読んだのかは覚えていません。)まず、使われている用語からして素人には分かりにくい。ミメーシスだのメトニミーだの、何のことだかピンと来ない。日本語で模倣などと書いてしまうと言葉の意味にずれが生じるという著者の考えから、このような言葉を書名や章の題名に使っているのだと思いますが、これは出版物として正しいことなのか。東大の小佐野先生の著書に「知性の眼 イタリア美術史七講」という本があり、この中で小佐野研究室の卒業生から「そんな題名では売れるはずがない」と言われたというエピソードが紹介されていますが、この「ミメーシス~」も(意味合いは少し違いますが)そんな本という気がします。
上記書評では「ルネサンス美術史に詳しく、かつ現代の批評理論に詳しい読者でなければ、本書を理解しながら読み進めることは難しい」「だがそのような読者がいないからこそ、本書を執筆しようと考えたのではないか」「若者の研究意欲を萎えさせてしまうのではないか」とあります。(自分が素人だから理解できなかったのではない、ということが分かりました。)美学は専門雑誌なので探しにくいかもしれませんが、できればこれに目を通してから「ミメーシス~」をお読みになることをお勧めします。
コメントありがとうございます。
1)専門誌「美学」205号(2001.6.30)に掲載された千野香織氏の書評
2)岡田温司氏の『ミメーシスを超えて』第3章
3)ミラード・ミース『ペスト後のイタリア絵画』
の順ですね。
まずは、図書館で1)と2)を探さなければ。
岡田氏の著書は難しい印象があって、単行本には手を出したことはないですが、新書は何冊か持っています。岩波新書の「グランドツアー」などは面白く読んだのですが。