東京でカラヴァッジョ 日記

美術館訪問や書籍など

【フィレンツェ→ローマ】天正遣欧少年使節がたどったイタリア

2017年10月04日 | 展覧会(西洋美術)
遥かなるルネサンス
天正遣欧少年使節がたどったイタリア
2017年9月21日〜12月3日
東京富士美術館
 
 
 
第2章    ローマへの旅
 
 
   1585年3月13日、フィレンツェを出発した使節団は、3月22日にローマに到着する。その間の路程は次のとおり。
 
フィレンツェ(3/13発)
→シエナ(3/14着、3/17発)
→アックアペンデンテ
→モンテフィアスコーネ
→バニャイア
→ヴィテルボ
→カプラローラ
→ローマ(3/22着)
 
 
   シエナで使節団はシエナ派の美術を見たのか? 本展からの情報はない。
 
 
   本展では、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の領地であるカプラローラ訪問に着目している。
 
 
   アレッサンドロ・ファルネーゼ(1520〜1589)。
   先の教皇パウルス3世(1468〜1549)の孫。
   1585年当時、次期教皇候補の本命と目されていた、知名度もローマ市民の人気も高い枢機卿。
   美術パトロンとしても、当代一の大々的な活動をしている。
 
 
   今年1〜4月に東京都美で開催された「ティツィアーノとヴェネツィア派展」。
 
   ティツィアーノ作の《教皇パウルス3世の肖像》および《ダナエ》がナポリのカポディモンテ美術館から出品された。国際的に活躍するティツィアーノに、ファルネーゼ家の宮廷画家になってもらおうと色々と策を講じ、それら傑作2点を描かせた人物が、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿である。
 
 
   本展では、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の59歳の時の肖像画が出品されている。
   シピオーネ・プルツォーネ(1540/42〜1598)が1578-79年に制作した作品。よく知らない画家で、作品自体も微妙。ティツィアーノが1545-46年に制作した《教皇パウルス3世と孫たち》や《枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼの肖像》(私的には図版しかみたことがないけど)とは、比べるまでもない。
 
 
 
   さて、使節団が招待された、カプラローラにある枢機卿の壮大な別邸、その内部装飾を手がけたのが、タッデーオ(1529〜66)とフェデリコ(1540〜1609)のツッカリ兄弟である。
 
   本展では、フェデリコ・ツッカリ作、ラファエロによるヴァチカン宮殿「ヘリオドスの間」のフレスコ壁画《聖ペテロの解放》の模写作品が出品されている。これはこれで楽しめる作品である、原作の魅力によるものだけれども。
 
 
   そのフェデリコ・ツッカリは、ローマ・アカデミーの院長を務めるローマ画壇の大御所である。
 
   1600年、ローマのサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂のコンタレッリ礼拝堂。完成したばかりのカラヴァッジョの祭壇画2点。「絵を一瞥すると、「ふん、わたしにはジョルジョーネのやり方にしか見えんわい」と言い捨てて背を向けた」とバリオーネが伝える、カラヴァッジョ史には不可欠の逸話の主人公が、このフェデリコ・ツッカリである。
   まあ、カラヴァッジョに悪意を持つバリオーネに、名前を都合よく利用されただけかもしれないが。
 
 
 
   ところで、フィレンツェ出発からローマ到着まで、使節団は9日間を要している。
 
   若桑みどり氏はその著作にて疑問を呈する。時間がかかり過ぎだと。土地勘のない私には分からないが、そういうことなのだろう、残された記録によると、4番手の使節である中浦ジュリアンが激しい高熱に冒された、と理由が存在するらしいが、それでも妙だという。途上までやってきた教皇庁の使者からの内々の要請により、ローマ到着を遅らせていた、教皇庁側では使節団を迎え入れる準備、それも本来の「公式の使節」としてではなく、教皇庁側の思惑もあって「国王と同じ待遇」で迎える準備を整える必要があったのだ、と氏は考える。
 
   なお、中浦ジュリアンの高熱は、ローマで一つのドラマを生むこととなる。
 
 
 
   第2章では、上述の油彩画2点のほか、タペストリー1点、マヨルカ陶器2セットの、計5点の出品となっている。
 
 
(続く)


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