東京でカラヴァッジョ 日記

美術館訪問や書籍など

【フィレンツェ】遥かなるルネサンス ー 天正遣欧少年使節がたどったイタリア

2017年10月03日 | 展覧会(西洋美術)
遥かなるルネサンス
天正遣欧少年使節がたどったイタリア
2017年9月21日〜12月3日
東京富士美術館
 
 
 
1582年2月、長崎を出港。
1584年11月、リスボンに到着。ポルトガル、スペイン滞在。
1585年2月、スペインを出港。イタリアへ。
1585年3月、イタリア・リヴォルノに到着。イタリア滞在。
1585年8月、ジェノヴァを出港。スペインへ。
1586年4月、リスボンを出港。
1590年7月、長崎に帰着。
 
 
   8年5ヶ月に及ぶ大紀行。そのなかの僅か5ヶ月であるが、主目的であるローマ訪問を含む「イタリア」滞在に着目した展覧会。
 
 
   1585年のイタリア美術。対抗宗教改革時代のイタリア美術。マニエリスム時代のイタリア美術。ルネサンスが終焉し、バロックが勃興する前のイタリア美術。カラヴァッジョ13歳の頃のイタリア美術。
 
 
   美術展というよりは歴史展の趣きが強かろうと想像し、私の期待も、美術作品よりも書簡や図版付き書籍の方においての訪問である。
 
 
 
プロローグ
 
 
   1549年から日本での布教活動を行ってきたイエズス会。
 
   1579年にイエズス会巡察士として来日したアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、日本での布教活動をポルトガル王とローマ教皇に理解させるため、日本人使節団のヨーロッパ派遣を計画する。
 
   使節団として選ばれたのは4人の少年たち。
・伊東マンショ(1569頃〜1612)
・千々石ミゲル(1569〜?)
・原マルチノ(1569頃〜1629)
・中浦ジュリアン(?〜1633)
 
   他に3名の日本人が同行したらしい。その3名も皆、無事にヨーロッパに到着し、無事に帰国したのだろうか。彼らは帰国後、どのような運命を迎えたのだろうか。
 
   本展のプロローグでは、次が展示される。
会期後半:キリスタン大名で、伊東マンショの親戚筋にあたる大友宗麟の肖像画
会期前半:キリスタン大名で、千々石ミゲルの叔父の従兄弟であるらしい有馬晴信からローマの枢機卿アントニオ・カラッファあての書状(使節団帰国の翌年夏に認められた)
 
 
 
 
第1章    トスカーナ大公国
 
 
   ポルトガル・スペイン訪問を終えた使節団は、スペインを出港し、1585年3月1日、イタリアのリヴォルノに到着する。リヴォルノは、トスカーナ大公国の重要港である。少年使節のイタリアにおける最初の地は、イタリア・ルネサンスの地、トスカーナ/フィレンツェ!!
 
 
   1585年のトスカーナ大公国は、2代目当主、フランチェスコ1世の時代。公妃は再婚した「美魔女」ヴェネツィア出身のビアンカ・カペッロ。彼らの肖像画が計3点出品される。
 
 
   使節団はトスカーナ大公に謁見する計画はもともとなかったらしい。予定外のトスカーナ大公訪問。それは、その後、イタリア中の都市国家たちの使節団誘致活動を招いてしまい、結果、使節団はこれら全てをまわらざるを得なくなる。
 
 
   1585年のトスカーナ宮廷の美術。
 
 
   トスカーナ大公国の宮廷画家として思い浮かぶのは、やはりブロンツィーノ。本展の目玉作品として、ブロンツィーノ作《ビア・デ・メディチの肖像》が出品されている。初代当主コジモ1世の早逝した娘を描いたもの。デスマスクをもとに描かれた説もあるとのこと。1542年頃の作。
 
 
   ただし、1585年時点では、ブロンツィーノは既に亡くなっており(1572年没)、使節団は本作を含む彼の作品を見る機会はあったのかもしれないが、彼が使節団を描くようなことはありえない。
 
 
   1585年のトスカーナ大公国の宮廷画家は、アレッサンドロ・アッローリ(1535〜1607)であるようだ。ときどき日本の展覧会でもその作品を見かける。本展出品の2点の大公妃の肖像画は、彼の工房作とある。
 
 
   使節団は、ピサでトスカーナ大公夫妻に謁見、8日まで滞在したあとフィレンツェに移り数日間滞在する(宿泊はヴェッキオ宮殿)。舞踏会でのエピソード、プラトリーノ庭園での水力学で動く人形の配された噴水に対する驚き、などが伝えられる。
 
 
   少年たちは、フィレンツェ・ルネサンスの名作を見ることはあったのだろうか。
 
 
   若桑みどり氏の著作によると、
 
   この町の雰囲気はこの当時、カトリック的な壮厳さをもっているというよりは、むしろエロティックで異教的だったから、教育のために見せるというわけにはいかなかったし、ボッティチェッリは女の裸を描き、1563年に死んだばかりのミケランジェロときたら、そのダビデにしても全部素っ裸で広場に立っていたから、神父たちは、マンマ・ミーアと思って少年の目を覆ったにちがいない。なんとこの花のフィレンツェで、彼らがわざわざ見にいった芸術といえば奇蹟を起こすマリア様の絵だけだった。マンマ・ミーア。
 
 
   「奇蹟を起こすマリア様の絵」とは、サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂の受胎告知を描いた14世紀のフレスコ画のようだ。
   「伝説によると、聖母の頭部のみを残してほぼすべてを描き終えた一人の画僧が、聖母の顔をどう描いてよいか、考えあぐねたすえ困り果てて眠り込んでしまったその間に、天使自らの手で完成された奇蹟の絵」と旅行ガイドにある。
 
 
   なお、同聖堂には、ロッソ・フィオレンティーノ、ポントルモ、アンドレア・デル・サルトのフレスコ画があるが、使節団はそれも見たのだろうか。
 
 
 
   1585年3月13日、使節団はローマに向けてフィレンツェを出発する。
 
 
 
   第1章に属する出品作は15点。上述の絵画のほか、彫刻家・建築家のアンマナーティ(1511〜1592)のブロンズ彫刻や、使節団に関する報告書《メディチ家雑録文書》など。報告書は、フィレンツェ国立古文書館が所蔵する3/8、11、13、15日付の計5通(3/11付が2通)で、フィレンツェにおける使節団の行動が詳細に報告されているとのことである。
 
 
 
 
   ところで、各地の元首に謁見する際、使節団は日本から持ってきた贈り物をしている。日本出発時、一体どれほど大量の贈り物を用意していたのだろうか。それらは、長い旅路における保管状況に問題は発生しなかっただろうか。
 
 
(続く)


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