生誕130年記念 北川民次展
メキシコから日本へ
2024年9月21日〜11月17日
世田谷美術館
北川民治(1894-1989)。
静岡県(現・島田市)生まれ。
1914年、20歳のときに早稲田大学予科を中退し、兄を頼って渡米。NYの劇場で働きながら美術学校に通う。
1923年、メキシコに移る。メキシコ壁画運動の影響を受ける。野外美術学校の教員(のち校長)を務める。1933年には藤田嗣治夫妻の訪問を受けている。
1936年、帰国。22年ぶりの日本。
当時の日本の社会情勢を目の当たりにして帰国を後悔した、と画家はのちに振り返っている。
以下、帰国してから1945年までの作品。
記事その1で取り上げた、二科展等の出品作以外の作品を掲載する。
1 銃後の生活など
《鉛の兵隊(銃後の少女)》
1939年、個人蔵
モデルは画家の長女。進撃するおもちゃの兵士たちは日の丸を掲げ、逃げ惑う兵士たちのもとには中国国民党の旗が倒れている。少女が背負っているのは「青い目の人形」。
《作文を書く少女(慰問文を書く少女)》
1939年、名古屋市美術館
モデルは画家の長女。学校での課題だったのだろう。
今夏、東京・九段の昭和館の特別企画展「慰問 銃後からのおくりもの」を見た(ブログ記事にはしていない)。
「慰問袋」「慰問文」についても大きく取り上げていた。
1937年(昭和12年)だから、画家の帰国の翌年となるが、日中戦争の開始によって国内全体が戦時体制へ組み込まれると前線への慰問品の送付が盛んになる。
慰問品の中で特に重要視されていたのが慰問文。慰問文は出征した家族など特定の相手に宛てられるものだけでなく、不特定の相手に送られることがあり、なかには受け取った兵士から返信が届き、交流が続く場合もあったという。
慰問文の内容は身の回りの出来事や銃後の活動などを記すよう推奨される。故郷の様子を伝える慰問文は兵士たちの心の支えとなり、終戦間際まで銃後と前線を繋ぐ役目を果たしたという。
同展では、慰問袋・慰問文を奨励するポスターや、慰問文・その返信文の実物も展示。
東京市長・東京市大田区長連名の慰問袋奨励文書では、次のように慰問文について記載している。
慰問文は是非皆様自身で真心のこもったものをお書き下さい。慰問文の入れてない慰問袋は魂の抜けた人間のようだと戦地の兵隊さんは申されます。印刷又は活写ずりの形式的な慰問文は面白みがなく、兵隊さんに喜ばれません。下手な字でもいいから、必ず肉筆のものを願います。
商機とばかり、百貨店は、慰問品を詰め合わせた慰問袋や慰問箱の販売に加えて、発送窓口の役割も担う。金を出せば手間のかかることは代わりにやるというものだろう。慰問文も用意していたに違いない。
しかし、戦争の長期化および戦況の悪化によって国内が物資不足になると、次第に戦地へ送られる慰問品の数は減少し、1944年(昭和19年)1月には海軍が戦時輸送の優先のため、以降の慰問品の受け入れを辞退する旨を発表する。
同展のメインビジュアルの一つ「慰問袋を作る少女」
《〔出征兵士〕》
1944年、東京都現代美術館
おそらく公の場での発表を意図せずに制作された本作。旧福富太郎コレクション。
この当時「出征」という主題は祝祭的に描かれるべきものであったのに対し、本作の人物たちには諦め感が漂う。
《焼跡》
1945年、名古屋市美術館
画家の家族がモデルだろうか。
2 画家の家族
《家族写真》
1943年、宮城県美術館
画家自身と妻と娘と息子。
グラント・ウッド《アメリカン・ゴシック》(1930年、シカゴ美術館)を想起させる作品。
画家は、東京から愛知の瀬戸へ疎開していた。
《農園の夢》
1943年、個人蔵
画家の家族がモデルだろう、シュルレアリスム風の作品。
《家族と画家夫妻》
1945年、個人蔵
画家の家族を描く。
3 戦争
《海王丸(舷側)》
《海王丸(甲板)》
《海王丸(通風筒)》
1939年、名古屋市美術館
画家は、大日本海洋少年団の嘱託画家として、練習船・海王丸に同乗する。
船は、東京を出発し、約1か月をかけて南洋のトラック諸島へ到着。その後、沖縄本島の与那原を経由して帰港。画家の仕事は、大東亜共栄圏の建設を内地に宣伝するべく海上生活を記録することであった。
《〔軍需産業(下絵)〕》
1941年、東京都現代美術館
《戦闘機と男女》
1942年、個人蔵
1941年、「大日本航空美術協会」の会員となった画家は、宮本三郎、藤田嗣治ら会員約30名とともに航空演習を見学しており、そのときのスケッチをもととしたのかもしれない。
画面左下には「油絵のための1942年の下描き」というスペイン語の書き込みが見られるが、これを元にした油彩画はおそらく制作されていないという。
多数の戦闘機が飛び交うなか、男性は宙を舞い、女性は大地に横たわる。裸の男女はアダムとイヴを思わせるが、その手に握られる「禁断の果実」は、リンゴではなく戦闘機。
本展は、画業全体を対象とし、メキシコ時代の作品や戦後の作品、戦中に制作した絵本なども多数出品されているが、私的には、帰国してから1945年までの絵画作品を関心をもって観る。