東京でカラヴァッジョ 日記

美術館訪問や書籍など

ターナー展(東京都美術館)を観てにわか勉強。

2013年11月18日 | 展覧会(西洋美術)

ターナー展
2013年10月8日~12月18日
東京都美術館


「ぎらつきような黄色」
ターナー(1775-1851)が好んで使用したクローム・イエローの絵具。
人は、「黄熱にかかっている」「カレー・マニア」と酷評したそうである。

当時の英国にとって「黄熱病」や「カレー」がどういう存在だったのだろうか。
と、にわか勉強。


【カレー】

 カレーと言えばインド。ただ、唐辛子は、新大陸原産で、1500年代にヨーロッパ人がインドに持ち込んだもの。それまでのカレーは、あまり辛くなかったらしい。(この辺りは、イタリア料理におけるトマトと似ている。)
 インドからヨーロッパにカレーのレシピが伝わったのは、18世紀。1772年、英国のインド総督によって、英国に紹介され、評判となった。19世紀初頭、英国のクロス&ブラックウェル社(C&B)社が「カレー粉」を商品化、「C&Bカレーパウダー」という名称で売り出した。これにより、カレーは、英国の家庭料理として普及し、国民食と呼ばれるまでになった。1810年にオックスフォード英語辞典に「カレーパウダー」の語が登場している。

 カレー情報館(http://curryinfo.seesaa.net/)によると、現在では、カレーは英国の家庭料理としてはほぼ廃れ、たまに食堂の日替わりメニューとして出される程度になっているらしい。理由としては、
1)当時は休日に牛肉を屠ってローストビーフを食べる習慣があり、その残りの肉を使って平日に食べる料理の一つとしてカレーが作られるようになったが、今では休日にローストビーフを食べる習慣がなくなった。
2)あまり馴染みのない米飯をわざわざ炊くのは面倒。
3)本格インドカレーを出すインド料理店が無数にある。

ターナーが活躍した19世紀は、英国の一般的な家庭料理としてカレーが大活躍した時代にあたるのだろうか。


【黄熱病】

 黄熱が人類史上に登場するのは17世紀。1648年、カリブ海沿岸地方での大流行が、最初の黄熱の流行に関する記録という。西アフリカ起源とされる黄熱が新大陸に持ち込まれたのは、奴隷貿易を通じて。黄熱の大流行は新大陸に拡大し、北米では、1690年にニューヨークに到達、1793年にはフィラデルフィアで人口1割以上の命を奪ったという。

 米西戦争(1898年)に勝利した米国は、保護国化したキューバで黄熱の撲滅作戦を展開。研究により、黄熱が蚊に媒介されることが明らかとなり、ハバナにおいて蚊の掃討作戦を展開、黄熱退治に成功する。
 ついで、パナマ運河。仏主導により1879年に開始された建設工事も、財政難に加え、黄熱病の蔓延により多数の労働者の命が奪われたことから、中断されていた。事業を受け継いだ米国は、1904年より蚊の掃討を開始し、黄熱を一掃。1907年から本格的な工事を再開し、1914年に完成に至る。
 パナマ運河の開通により、カリブ海の黄熱が太平洋沿岸に拡大する危険性が高まる。1914年にロックフェラー財団は黄熱撲滅計画を正式事業として決定し、1918年にエクアドルに調査団を派遣する。この調査団のなかに、ロックフェラー研究所の野口英世がいた。野口は1928年、黄熱病の研究中に罹患しガーナのアクラにて死亡する。黄熱ワクチンが開発されたのは1937年のことである。
(一般財団法人 海外邦人医療基金HPに基づき記載。)

 ターナーが活躍した19世紀、黄熱が英国等ヨーロッパで活躍したわけではなさそうであるが、新大陸での流行や渡航者の罹患等が、新聞等で報道され、強い関心事となっていたのだろうか。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。