私にとっての母の日はもう84年になるんですね~
いつの頃から始まったのかしら~調べてみました。
外国の説からもうなずけるものがありましたが、
日本はいつから母の日と?
日本で初めての母の日を祝う行事が行われたのは明治の末期頃で、
1915年(大正4年)に教会で祝われ始め、徐々に一般に広まっていったと
伝えられています。
昭和に入ると3月6日を母の日としていました。
この日は当時の皇后の誕生日であったそうです。現在のようになったのは、
戦後しばらくしてからだと言われています。
また、一般に広く知れ渡ったのは1937年(昭和12年)
森永製菓が告知を始めたことをきっかけにするとも言われます。
何故カーネーション?
全国キリスト教会の礼拝と、日曜学校で行われてきた。
母性愛を表すカーネーションの赤い花は母が健在なる人、
母が亡くなられた人は白い花を胸に飾り、
互いに喜び合い慰めあいするばかりでなく、
東京では母の日大会が開かれ、
全国の日曜学校ではお母さまを招待して
母をたたえる催しをすることになっている。
花が好きな母の為に、今年はクレマチスを贈りました。
紫色が好きなので~そして地植えにすれば何年でも咲きますから~
今日の母は、お寺にお参りに行くといって、グレーのズボンに
やや曇ったピンク色の上着、ピンク色の淡水真珠のネックレスをしていました。
デイサービスに行くようになってから、少々認知気味だったのが
かなり、はっきりと物事を記憶できるようになったと思います。
まぁ~加齢による物忘れは仕方が無いと思います。
おばあさん、おばあさんしていない母は、やっぱり良いです。
歌声も綺麗ですし~
きっと私の声は母似なのだと思います。
母は迎えに来てくださった方と一緒にお寺へ~
私と夫は万古祭りに~
昔から私の住が住んでいた地域は、万古焼きという陶器の工場が
たくさんありました。
1736年~1741年に万古焼きが始まったと言われています。
家内工業から大きな工場(20にん~30人)まで。
しかし、何年頃から万古屋と言われる工場も少なくなってきました。
輸出のために作られていたのですが、どんどん輸出も少なくなって国内需要に
切り替わって行ったようです。
今では、伝統工芸士と言われる方々が親から受け継いで
万古の良さを守って下さっています。
あの、土の匂いは忘れられません~懐かしい匂いです。
家族が少なくなって、鍋をするにも大き過ぎて、ついつい作りすぎてしまう事が
多くなったので、一回り小さいのを買う事にしました。
市販では2000円位するものも、500円で買えました。
手作り茶碗2個、カップソーサー1個、夫用の大きな湯のみ1個
市場価格12000円位のところ、2200円の出費ですみました。
温泉は残念ながら時間がなく行けませんでした。
来週~行く事にします。
最新の画像[もっと見る]
紫のクレマチス、素敵ですね。
お母様もオシャレな方なんでしょうね。
年をとると段々と、親に似てきますよね。
私も母と髪の癖まで同じですよ。
うちは小鍋なるのはまだ先ね。
なにしろまだ、2人残ってますから。
OTOは両親いません。
昨日は県スポーツ大会に行きました。障害急歩とソフト投げをしました。また、疲れています。では、
私が子供の頃母の日にプレゼントした記憶はありません。
私もプレゼントする人はもうおりません。
オシャレなお母さんがおられて幸せですね
私は娘から、仕事着のエプロンかのんベだからビールのプレゼントが多いです。
今年はエプロンを貰いました。
万古焼き名前だけは知っております。
私の所は逆に大勢だと対処できません。
年をとってもおしゃれでいられると言うことは良いですね。いろいろ苦労したので今、もっと楽しんで欲しいと思っているんですよ。
♪OTO様
県スポーツ大会、お疲れ様でした。
前向きに障害と闘っておられるお姿に
感激いたしました。これからもどうぞ頑張ってくださいね。
ご両親様はもういらっしゃらないのですね。
なき両親様を想って、どうぞ、祈りの心をお届けください。
♪カスミ草様
私も子供頃には特別にプレゼントをした事はありません。ただ、母親が私にして欲しいことを、私は一生懸命やっていたように思います。でも、残念ながら、母が私になって欲しかった「宝ジェンヌ」にはなれませんでした(笑)。
カスミ草さんってのんべ?
ビールなんていうのも良いですね~
今年は嫁ちゃんからピンクのカーネーションを貰いました。
娘は「王子様」を貸してくれました。
大土なべも全員集まると10人になるので
捨てるわけにはいきませんから大事にしまってあります。