まぁ酷い目というかぁ 慌ただしかったというかぁ・・
師匠からのお呼び出しで 急いで本堂の方へ出向いたら 師匠が何やら私に
「論文を書いている原稿が散らばってしまってるので順番に拾い集めて閉じてくれ」とのこと
まぁその原稿の枚数が多いこと多いこと300頁以上もあってねぇ 番号を打てば良かったのに打ってなかったので・・
頁の最後の文章の所と合致する文章の原稿を拾い集めてたんだけど とうとう朝日が昇る頃にやっと終わった。
私の師匠は 物を書くと言うことにエンジンが掛かっちゃうと周りのことは一切見えなくなる人だからねえ
書いては後ろへポイッ! これの繰り返しだものねえ 1週間ほど前に始められてやっと終わりが見えてきたと言うのに
自分で解んなくなってしまったらしい(笑)
まぁ面白い師匠だから人間味があるのだなぁ・・
師匠が今から何年か前に年金を頂戴出来るようになられた時には「明日から山に籠もります」そう言って「山鹿市」の山の中の
洞の中に籠もられた事もあってねえ まぁその時が大変だったんですがぁ
檀家さんには「法要など有るときにどうしてもやって頂きたいと思ったら他の寺院に頼んででも行って下さい」
なんて書き置きして置いて行かれたりしてねえ(笑) 私には師匠の本心は少し分っていたのだけどねえ
ホントは檀家の人達に教えたかったのでしょうねぇ・・
先ずは仏法は亡くなった人を供養するためにあるのではないと言うことを教えたかったのだと・・
これはねぇ 仏法は生きていくための生き方を知らしめるためにあると言うことを教えたかったのだと
現に釈迦牟尼佛がおわせした月氏国(インド)には一般人のお墓なんて物は一基もないんだよねえ
寺院はもの凄い数あるんだけどねえ・・
それに名を馳せた高僧達の廟が希なくらいにあるだけでねえ
人は亡くなったらそれでひとまずは終わりなんだよね
また気が遠くなるような時を経て生を受けて地上に出現するんだけど(世に言う 輪廻)どんなに周りの人が
亡くなった人に対して供養をしようが何も変わらないのだよね 変わろうと思えば生きてるうちに善を積み
経を読み学問をし徳を積むことなんだよねえ
何故か よく考えてみれば解ると思うが 後に残った縁者や家族が供養して来世がよりよき者に生まれ変われるとすれば
それは既に他力本願の世界になるのだ 残った者がいくら供養しようが変えられないことなのです
師匠が言うには「私が死んだら 骨は海へ散骨して下さい」とのこと
人間死んだら何も残らないって・・立派な墓に入れて供養してもお金が無駄なことだって・・
生きている間に何をするかが人間の一番大事な事なんだと いつも仰る
まぁひとつ確信的な例を挙げてみようと思うが 皆さんの中にも全身麻酔を施して手術を受けられた方もあろうかと思いますが
あの時にもう完全に意識は無いですよね 多分全身麻酔が効いているうちには夢さえ見ないと思いますが・・
でも生きているのは事実ですよね 疑いようも無い ではその時の心は何処にあるのでしょう?
頭の中?胸の中? 足先?腕? 何処にあるのか本人でさえ解らない
でも確かに悲しいとか 怒るとか そういうことを感じる 心というものが存在してるのは確か。
身体の中にあって隠れているのか 身体の外にあって手術がすむのを待っているのか?
有ると言えばある ないと言えばない 両方とも証明することは出来ない 生命というものはそれと同じなのである
ちゃんと輪廻して生まれ変わるまでは 手術中の意識が無いのと同じである
まぁ何だか話がややこしくなって理解しがたくなってきたと思いますが ご勘弁の程をm(__(m
まぁ私が思うにはその事を檀家の方々に教えたかったのだと思う
生きる為の経であり亡くなった方の為の経ではないと言うことを言いたかったのだと
人間良く勘違いしていて やれ法要だのなんだのって 普段は全く信心しないくせにその時になって拝もうとする
ホントに心から供養したければ毎日拝みなさいと 人に頼まないで自分でやりなさいと・・
まぁあまりにも真っ正直なお師匠だから少々風変わりに見られちゃうんだが まぁこれも仕方ないことかなぁ。
あれっ? 気がつけば こんな時間になってしまった^^; 釣行記の続きを書こうと思ってたんだけど
ゴメンナサイね 先日の続きは明日と言うことでご勘弁下さいねぇ おやすみなさ~い
障泥烏賊はイカの中でも特に美味しいですよねえ(実は私はヤリイカの方が好きなんだけどねえ)
師匠からのお呼び出しで 急いで本堂の方へ出向いたら 師匠が何やら私に
「論文を書いている原稿が散らばってしまってるので順番に拾い集めて閉じてくれ」とのこと
まぁその原稿の枚数が多いこと多いこと300頁以上もあってねぇ 番号を打てば良かったのに打ってなかったので・・
頁の最後の文章の所と合致する文章の原稿を拾い集めてたんだけど とうとう朝日が昇る頃にやっと終わった。
私の師匠は 物を書くと言うことにエンジンが掛かっちゃうと周りのことは一切見えなくなる人だからねえ
書いては後ろへポイッ! これの繰り返しだものねえ 1週間ほど前に始められてやっと終わりが見えてきたと言うのに
自分で解んなくなってしまったらしい(笑)
まぁ面白い師匠だから人間味があるのだなぁ・・
師匠が今から何年か前に年金を頂戴出来るようになられた時には「明日から山に籠もります」そう言って「山鹿市」の山の中の
洞の中に籠もられた事もあってねえ まぁその時が大変だったんですがぁ
檀家さんには「法要など有るときにどうしてもやって頂きたいと思ったら他の寺院に頼んででも行って下さい」
なんて書き置きして置いて行かれたりしてねえ(笑) 私には師匠の本心は少し分っていたのだけどねえ
ホントは檀家の人達に教えたかったのでしょうねぇ・・
先ずは仏法は亡くなった人を供養するためにあるのではないと言うことを教えたかったのだと・・
これはねぇ 仏法は生きていくための生き方を知らしめるためにあると言うことを教えたかったのだと
現に釈迦牟尼佛がおわせした月氏国(インド)には一般人のお墓なんて物は一基もないんだよねえ
寺院はもの凄い数あるんだけどねえ・・
それに名を馳せた高僧達の廟が希なくらいにあるだけでねえ
人は亡くなったらそれでひとまずは終わりなんだよね
また気が遠くなるような時を経て生を受けて地上に出現するんだけど(世に言う 輪廻)どんなに周りの人が
亡くなった人に対して供養をしようが何も変わらないのだよね 変わろうと思えば生きてるうちに善を積み
経を読み学問をし徳を積むことなんだよねえ
何故か よく考えてみれば解ると思うが 後に残った縁者や家族が供養して来世がよりよき者に生まれ変われるとすれば
それは既に他力本願の世界になるのだ 残った者がいくら供養しようが変えられないことなのです
師匠が言うには「私が死んだら 骨は海へ散骨して下さい」とのこと
人間死んだら何も残らないって・・立派な墓に入れて供養してもお金が無駄なことだって・・
生きている間に何をするかが人間の一番大事な事なんだと いつも仰る
まぁひとつ確信的な例を挙げてみようと思うが 皆さんの中にも全身麻酔を施して手術を受けられた方もあろうかと思いますが
あの時にもう完全に意識は無いですよね 多分全身麻酔が効いているうちには夢さえ見ないと思いますが・・
でも生きているのは事実ですよね 疑いようも無い ではその時の心は何処にあるのでしょう?
頭の中?胸の中? 足先?腕? 何処にあるのか本人でさえ解らない
でも確かに悲しいとか 怒るとか そういうことを感じる 心というものが存在してるのは確か。
身体の中にあって隠れているのか 身体の外にあって手術がすむのを待っているのか?
有ると言えばある ないと言えばない 両方とも証明することは出来ない 生命というものはそれと同じなのである
ちゃんと輪廻して生まれ変わるまでは 手術中の意識が無いのと同じである
まぁ何だか話がややこしくなって理解しがたくなってきたと思いますが ご勘弁の程をm(__(m
まぁ私が思うにはその事を檀家の方々に教えたかったのだと思う
生きる為の経であり亡くなった方の為の経ではないと言うことを言いたかったのだと
人間良く勘違いしていて やれ法要だのなんだのって 普段は全く信心しないくせにその時になって拝もうとする
ホントに心から供養したければ毎日拝みなさいと 人に頼まないで自分でやりなさいと・・
まぁあまりにも真っ正直なお師匠だから少々風変わりに見られちゃうんだが まぁこれも仕方ないことかなぁ。
あれっ? 気がつけば こんな時間になってしまった^^; 釣行記の続きを書こうと思ってたんだけど
ゴメンナサイね 先日の続きは明日と言うことでご勘弁下さいねぇ おやすみなさ~い
障泥烏賊はイカの中でも特に美味しいですよねえ(実は私はヤリイカの方が好きなんだけどねえ)