手段の目的化、ってありますよね~ こんにちは~
ややこしいというか、なんとなく自分の中で可視化したくなかったような価値観の話です。
今までこれが自分を苦しめてたのか…ってびっくりしました。
本題に入る前に。
皆さんって、ほかの人に「優しい」とか「かっこいい」とか、内面についてなにかコメントされたことありますか?
…自分もあるので、多くの人は何かしら言われたことがあると思います!
私が言われて印象に残っているのは、二方面からのコメント。
・思っていたより冷たい
・思っていたより優しい
・気位が高い
全部で3つあるけど、二方面なのでこういう感じで。
最初2つの正反対のコメントをもらったのが、学生のときとかです。
見せる面も、個々人の「優しさ」の定義も異なっているから、そりゃあ全然普通やな~と考えてたんですよね。
私は私なりに解釈した「優しさ」を発揮してるつもりですよ。
大したことはしてませんが、それなりに胸張って生きられる生き方をしてると思いますよ。
……カンがいい人は分かると思うんですが、これらを総括すると3つ目の「気位が高い」になるんでしょうね。
ちなみに、「(私は)すごくいいやつだけど、どこが好きとかは言葉では表しきれない」「気位は高い」と評していたのは幼馴染でした。
今思うとこの言葉に感謝しかない……
他に言葉が思いつかないから、高潔という表現になっちゃうんですが。
高潔でありたいがために、優しさを使ってませんか?
自分が思う「高潔」の再現のために自分を使ってませんか?
自分の思想に振り回されてませんか?
なんとなく優しくしたいからした。
今すぐ結論を出さずに、時間や運に任せたり任せなかったり、物事を決めずにおいてみた。
それでもいいんじゃないかな~ってこの年になって思いました。
幸せになるために高潔であるならいいけど、高潔では幸せになるのは難しい。
この世の中で一貫性を保つって、もしかしてすごくすごく辛いことなのか…と思い知っています。
だってタイミングとか運とかが大きすぎませんか!?
コントロールできないのは自分のせいではない、って気が付いたら、あとはもう限界が来たら手放すしかなくないですか!?
一貫性のおかげで続けられたこととか、こうやっていろいろ考えることができたとかいい面はあるけれど。
本当、ここまで大失敗せずに来られた幸運と、つけ入るみたいなことをしてくる人がいなかった悪運と、善良な友人たちに感謝しかない…………
この気付きを、擦れた、あるいは慣れたとか表現するのかもしれませんね。
私が自分の仕事に対して「ずるいけど…」って評価したときに、上司が「そんな風に言うけれど、僕はすごくいいやり方だと思う」って言ってくれたし。
自分で自分のことをジャッジするのってしんどいことですよ、って書いてあるような記事を読めてよかった。
場面場面で高潔であったり、そうじゃなかったり、特にあれこれ決めないでありたいなあ…と思う連休初日でした。
推敲してない文章で読みづらかったらごめんなさいね~~🐈